2006年12月17日 (日)

「ウェブ人間論」書評

 「ウェブ人間論」を読んだ。あちこちで書評がなされているのを見て一昨日に買ってきたのだが、面白い。対談本という平易な形式も手伝って、まもなく読み終えた。
 中身はものすごく濃密で情熱を受けるものがあった。だからこそ、受験間近のこの時に書評を書くのだが、「ウェブ進化論」(生憎未読だが)のウェブ上での反響を一万以上読んだという梅田氏は、ウェブの片隅に存在するこのブログを読んでくれるのだろうか。そりゃもちろん、グーグルの検索エンジンによって容易に探し出せるのだろうが。

 そして書評だが、何から書き出せばいいのかよく分からない。確かに平野氏からは若さを、梅田氏からは長い人生経験がなす寛容でオプティミスティックな感覚が感じられた。話者二人の世代的な背景についてはfinalvent氏の書評(全共闘云々のくだり)が詳しいのでそちらを参照してほしい。
 梅田氏のあとがきによると、ウェブが人間にどう影響を及ぼすのかという「ウェブ・人間論」と、ウェブ世界を形成する人々に焦点を当てた「ウェブ人間・論」との二つ(それぞれ二章以前、三章以後か)に大別できるようである。
 「ウェブ・人間論」についての対話は、ウェブに接して変容する人間の負の面をセンシティブに受け止めようとする平野氏と、ウェブを無限の可能性として捉えるオプティミスト梅田氏との間の断層が印象的であった。山口浩氏やfinalvent氏が評するように、この部分の緊迫感は読者にも伝わってきて、それでも忍耐強く対話する二人の姿勢が素晴らしかった。私としては、平野氏が提起するウェブに変容「させられてしまった」人間に対するミクロな見地というものに同感するところが多く、梅田氏がこの問題提起のシリアスな部分に気づけていないのではないかと思うところがあった。
 全体を読むにつれ、恐らく梅田氏はこの問題提起を受け止めながらあくまでもオプティミズムに徹しているのだなと思いもしたが、「ウェブ人間・論」の対談部における氏の圧倒的な優勢・先見性を見るに、氏はウェブ人間=シリコンバレーの世界の「狂気」に既に魅せられてしまった人なのかもしれない。もちろん氏はこうした部分に自覚的でもある。

 少し話が錯綜してきたので再び整理してみる。敢えて大雑把に解釈するが、「ウェブ・人間論」部は平野氏による「ウェブに呑まれてしまう人間」の問題提起であり、「ウェブ人間・論」部は梅田氏による「ウェブを使役する側の人間」の問題提示である。エンディングが近づくにつれ、梅田氏がウェブを使役すると同時に、使役することに呑まれてしまっている人間であることが見えてくるが、こうした部分にまで平野氏の「ウェブ・人間論」の問題提起は対応しきれていない。

 私の関心は依然として平野氏の提起に向くのだが、氏が提起するミクロな人間像とは如何なるものなのだろうか。梅田氏はウェブが人間の知を増幅するという見地に立っているが、元々身につけている素地によって差は生じないのだろうか。ウェブはリテラシー(≒教養)をつけた人間が使ってこそ増幅可能な装置であって、リテラシーがない人に同様のことができるかは怪しい。それについて、梅田氏は四章で読書を通して構造化された知の体系(=教養)を身につけることが必要と述べている。これはもっともなことであるのだが、その必要性にも拘わらず人を呑み込んでしまうのがウェブであるという平野氏の危機意識は伝わっていないように見える。結局、平野氏の問題提起は煮詰めていくとケータイに依存している若者像に近いものになるだろうか(というか私はケータイを使わないのだが)。私が「ウェブ・人間論」の本書の中での帰結にあたると思ったのは次の部分である。

平野 それが世代的な問題になるのかどうかわからないんですけど、今はネットしかない人も結構いますよね。
梅田 本も読まないでテレビばかり見ているという状態と、ネットを少しやるという人の比較で見るべきではないでしょうか。テレビを見ている時間が少しネットに移ったという感じでどうですか?
「ウェブ人間論」p180
 もちろん梅田氏の解答はもっともであるのだが、ウェブの双方向性の魔力が伝わっていないか。要するに擦れ違い。氏は良くも悪くもウェブを使う「狂気」に呑まれてしまっているのである。読者としては、この対談を踏まえた両者が、「ウェブ・人間論」と「ウェブ人間・論」との止揚に向けて努力していくことを期待したい。無論、我々一人一人が考えていく問題でもあるのだが。

 「ウェブ人間・論」については、梅田氏の提示する「狂気」の世界も一つの可能性だと思うので云々しない。この論題の一つの帰着が今回のWinny金子氏裁判だと思うので、これに対する社会の反応が気になるところである。

 この本は対談という形式で様々な問題提起がちりばめられているが、それを大きな問題だとも受け取れるし、割り切ってしまえば些細なことでもある。だが、この先未来に起こるテクノロジーと人間の変容が気になるのならば、この書を手にすることは少なからず有意義であろうと思う。



ウェブ人間論


ウェブ人間論


著者:梅田 望夫,平野 啓一郎

販売元:新潮社

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2006年8月27日 (日)

他者性を持つということ

 夏休みももう終わろうとしている。ほとんど書き終えて放ったままにしていたテキストを見つけたので、掲載しておく。人々はもう忘れかけている頃だろうが、今夏報道されて話題となったカルト宗教団体「摂理」についてである。

 この団体が報道された時、私はある種の驚きを感じたものだった。なぜ驚いたかというと、「摂理」が信者を拡大していった手法が、前々から私が考えていたことと酷似していたからである。私が考えていたのは、人を信じることと、宗教を信じることとの差異とは何かということである。普通、ある程度弁舌の達者な者なら、人に何かを信じさせることは決して難しくない。が、それが宗教となると話は違ってくる。日本人に特有な気質からか、宗教というものに対するアレルギーが強く、これを信じ込ませるのは至難の業である。しかし、極力宗教的色彩を帯びない形で教理を刷り込み、サブリミナルな領域にまで浸透しきった段階で、宗教の名前を出し勧誘すればどうなるだろうか――。この問いの答えこそ、まさに今回「摂理」がやってのけた手法だったわけである。私はあまり詳しくないのだが、オウムが勢力を拡大したのもこれと同様だったそうだ。思えば、現代の新興カルト宗教はほとんどがこの手法を用いている。それでも、この罠にかかってしまう人(特に高学歴者)が後を絶たないのは、なぜだろうか。

 私が思うに、問題は宗教を信じるか信じないか、ということではない。先に述べたように、宗教名を出されて勧誘される頃には、宗教のドグマ(教理)は知らずの間に自己の内部に入り込み、同化しているのである。ここで勧誘を受け入れない場合、それは宗教を信じないものであるばかりか、自己さえも信じないことになる。つまり、問題は自己を信じるか信じないかという部分に集約されるのである。だから、多くの場合、自己を裏切ることができず、宗教を受け入れてしまう。ここで必要とされるのは、自己に対して懐疑を抱けること。さらに言えば、自己に対して常に疑問を投げかけるような、自己の内面の”他者性”が存在していることである。自己に対してでさえ疑問を抱くことができるような、内面に向き合う強さがなければ、このような宗教の勧誘手口にかかってしまうのである。仮にそれが自己に対する不信からだとしても理屈は同じで、宗教に対する自己の肯定意識に疑念を挟むことができるかが問題となってくる。今回の事件で、いとも簡単に信者が増えていったのは、それだけ現代の若者が自己の内面に向き合う強さを備えていなかったからであると言えるだろう。

 今回の事件では、勧誘のターゲットとされたのが専ら高学歴の有名大学であった。彼らが高学歴であったにもかかわらず容易く勧誘されてしまったのは、知能と内面の強さとが必ずしも比例しないことを示している。おそらく内面の強さは、自己とは何者であるかを問う実存的な思索、体験を通じて得られるものである。この問いは単純で愚直になればなるほど本質に近づくものであるから、頭の良さとは決して関係ない。むしろ広い人生経験の延長上に位置づけられるものかもしれない。とかく大切なのは、実存とは何かを見つけ出すことではなく、自己とは何かを問いかける実存的な経験である。この方法論を知っているか否かが、勧誘を拒否できるかどうかの鍵となる。

 なぜ現代の若者はこれほどまでにカルト宗教の勧誘に乗せられてしまうのか。この問題を社会的背景から捉えるならば、近年モラトリアムの期間が増えたことの他に、個人主義の浸透が原因として挙げられるだろう。現代に入って核家族化が進展し、村落共同体的なものが瓦解した。その後、共同体意識の崩壊と並行して西欧個人主義が浸透し、種々の社会システムが合理的に見直される反面、実力主義の風潮が高まった。つまり、日本社会におけるタテとヨコの繋がりが徐々に失われていったのである。そうした社会状況下では、個人は社会的な繋がりの中で自己を確立させることが難しくなった。このことによって、個人は自己を相対的に見つめ直すプロセスを経ることなく、自己の絶対化によってアイデンティティを確立させるようになったのである。自己を相対化して見ることのできる社会ならば、実存的な経験を得る機会も多いだろうし、タテやヨコの繋がりの中からカルト宗教への違和感を感じ取るきっかけを掴めるかもしれない。だが、自己の絶対化による自己確立を余儀なくされる社会では、個人は自己を拠り所にするほかないので、カルト宗教の誘惑に対してあまりにも脆弱である。

 ここまでカルト宗教に対する現代的な自己の危うさを書き綴ってみたが、私が実際にこうした勧誘を受けた場合、大丈夫だと言い切れる確信はない。ただ、「私は本当に正しいのか」という自問を忘れないように、日々精進していこうと思うものである。

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2006年6月 7日 (水)

ひらめきの神秘

 今日のエントリも前回に続き、書評めいたものである。連続して書評を書くと手抜きと思われそうだが、後々のエントリのための基点としたいので、あえて書く。はっきりいって、今日のエントリは曖昧で分かりづらいものであるが、そのうちの幾人かでも私に共感を示してくれれば、と思う。

 前エントリで紹介した「下流社会」よりも先に読了していたものなのだが、以前に茂木健一郎氏の「ひらめき脳」を読んだ。新潮新書の字詰めの甘さに少し憤慨しながらであったが、平易に書かれた文章は非常に読みやすかった。一つだけ注意すべきは、この文章が全て茂木氏の手によるものではないことである。巻末に書いてあるが、茂木氏の考えを聞いた第三者が文章にまとめ、それを本人が手直しするという形になっている。そのために本書では茂木氏独特の文体というものは見られないが、他の茂木氏による著作の内容を平易にまとめた入門書の役割を果たしていると思う。この一冊だけでも十分に感得できるものがあるのなら、間違いなく良書と言うべきだろう。

 さて、内容に触れていきたい。本書は題名のごとく「ひらめき」について色々な面からアプローチを仕掛けている。記憶や忘却、無意識などの事柄と「ひらめき」がどう結び付いているのかを、現在判明している研究成果から考え出していこうとする構成だ。なかなか目から鱗の内容も多いのだが、詳しくは本書の実物を書店で立ち読みしてもらうなりするとして、茂木氏の書き方あるいは考え方のどこが素晴らしいのかを考えてみた。氏はどうして「ひらめき」という結論のない問題について、読者に納得させられるように書けるのか。私が思ったのは、茂木氏の書き方は問題そのものに光をあてて明らかにさせようとするものではないけれども、問題の周辺に光をあてて問題自体の輪郭を浮き上がらせるようなものであることだ。「ひらめき」という、それ自体を語り得ない問題に対しては、これが最も有効な手法であると思う。示すのは問題の輪郭だけであるので、一番重要なポイントは読者の感性に委ねられたまま。つまり、こういう科学の本にありがちな「語りすぎる」という弊害を無くする働きをしているのである。しかも、さらに付け加えさせてもらうと、問題(あるいはその周辺)に対する光の当て方に、著者の好奇心が上手く織り交ぜられていて、読んでいる人間としても飽きない。これらのことが、知識層から一般まで広く支持を受ける茂木氏の秘密なのだと私には思えた。

 ひらめきとは何か。茂木氏の文章はその輪郭を確かに上手く伝えていたけれども、私がその輪郭をよく理解できたのは、私にひらめきの経験があったからという理由が最も大きいと考えている。時折、開かなかった扉がひとりでにゆっくりと開いてゆく感覚。一度開きかけた扉はそのまま手でこじ開けることもできるし、じっと待つだけで自然に開いていってくれる。そうした感覚は日常の何気ない時に現れることもあるが、一番多いのは夜半の静けさの中に身を置く時だ。人間的な生活音が消え失せ、一種の孤独めいた空気の中にいる時。孤独に迫られて考えるでもなく、自ら肯定的に孤独の中へ足を踏み出す時。そんなときにこそ、ひらめきというものは現れるのだ。私がひらめきと思うものの中には、新たなことの発見だけではなく、今までの知識が異様な情熱と共に脳裏に焼き付けられることもある。再認識というよりは追体験に近い感覚。そうしたことを時々感じ取ることで、私は日々成長しているのだと思っている。ただ、重要なのは求めるのではなく静かに待つこと。ひらめく環境を整えることである程度は促されるだろうが、やはり時間以外には本質的に何も解決してくれない。それは即ち、茂木氏が文章中で述べていた「脳は絶えず働いている」という言葉と見事に一致してくるのである。改めて茂木氏の文章に秘められた力を感じ取らされたものであった。

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2006年3月27日 (月)

「国家の品格」は書の品格に欠ける

 私は以前に「国家の品格」という本を借りて読んだことがある。非常に読みやすく、読むのが遅い私でも一日や二日で読み終わる本だった。だが、読み終わって私が強く思ったのは、世間で素晴らしい本だと言われているほどの価値はない、ということである。

 この本の構成は、前半で近代合理主義的風潮に対する批判をしていて、後半は日本文化を賞揚する内容になっている。私にとって、後半は非常に快い内容であったけれども、前半はやや不快とも言える内容だった。著者の批判のやり方があまりにも粗雑だったというべきだろうか。著者の主張に至る論理のプロセスがあまりにも短絡であるように感じた。冒頭の問題提起で「教育などの問題は論理では割り切れない」としたところは良かったのだが、その後の文章展開では合理主義を批判するあまり、論理的思考そのものをも否定するような論調になっている。その中で私が特に気になったのは、著者が「数学でも論理が完全でないことが証明されている」として、論理の限界を指摘した部分である。ネット上で、この本に肯定的な評価をしている人の多くがこの記述を挙げていたのだが、私はそういう評価を下した人々に対して多大な危惧を抱く。なぜなら、「数学者が論理を否定したのだから」とか「数学でも論理は完全でないのだから」という考え方は一種の権威に対する盲信だからである。その人の主張の論拠を斟酌せずに、「あの偉い人が言ったのだから間違いない」と一方的に考えることが果たして賢明な判断だと言えるだろうか。読者には、著者の肩書きなどで判断せずに、その主張の内実を吟味して判断する姿勢が求められなくてはならない。事実、社会問題が数学のように簡明な論理で構成されていないからといって、数学よりも論理性の劣るものだと考えることは誤りである。社会問題も分析を深めていくと、それが様々な個別的問題を内包しているものであると気付かされるからだ。それは数学よりも複雑な論理の集合体であるとも言えるのである。だから、数学の論理が否定されたとしても、そのことをもって社会問題の論理性を否定するのは短絡的な結び付けだと言わざるを得ない。(一方で、社会問題を構成する要素には論理的でないものが含まれていることも事実である。)

 もう一つ、私がこの本に対して否定的な理由は、まさにその後半部にある。私は確かに後半は快い内容であったと書いた。事実、日本文化にしかない「憐れみの心」や「弱者へのいたわり」を賞賛する記述は私の心を強く打つものだった。しかし、それと同時に私が感じるのは、この記述が果たして書物として優れたものであるか、ということである。残念ながら、このような記述は私にとっては当たり前のことであり、それに同意こそすれ、秀逸であるとは思わないのである。しかも、これと同様の主張はネットで探せば、保守系のブログなどを中心としていくらでも似たようなものが見つかる。つまり、私はこの主張に対して、プロの卓越性を微塵も感じなかったのである。ありふれた主張をするだけならわざわざ本を書く必要など皆無だ。
 私は前半の粗雑な論理構成と、後半の主張の凡庸さ故に、この本は”書として品格がない”と断言したいと思う。

(この本に対する様々な書評の中で、私の意見と近いなと思ったのはこちらの書評です。併せてご覧頂くと良いと思います。)

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2006年3月12日 (日)

人と接する能力

 今日は近所の焼き鳥屋に行って夕食を食べた。その焼き鳥屋は数ヶ月前に一度行ったことがあって、値段がとても安かったので(どうやら全国的にチェーン展開している店らしい)また行ったのだが、今日は前回よりも非常に楽しく食べさせていただいた。何が楽しかったかって、店員の馬鹿さ加減が、である。

 店はそこそこの繁盛具合で、店員は忙しそうに動き回っていた。その中で新人らしき初々しさの若い店員の兄ちゃんが私たちのテーブルの担当らしかった。その兄ちゃんは、私の母親が「おしぼり持ってきて」だの「お茶急須ごと持ってきて」だの言う、大阪のオバちゃん臭い強引な注文にも懸命に応対してくれていた。それでも手際の悪さに母は苦笑いしていたが、懸命さに好感が持てる兄ちゃんだった。私が注文を追加したときなどは、何を頑張ろうと思ったのか、「そちらの方はチューハイなどいかがでしょうか」と私に聞いてきていた。私は未成年なんだけどなぁと苦笑いしながら、でも中央公論を読みふけってる未成年なんて何処にいるんだと自嘲してしまう。店の入り口には「未成年に酒はお売りしておりません」としっかり書いてあったのだが、店としては飲んでくれるなら未成年でも売りたいのだろう。最近では「ウチの店では未成年らしき客には年齢確認をしています」と自慢げに語る居酒屋チェーンの社長もいるが、どうせ「ガタイが良くて未成年にはとても見えなかった」とか言い逃れの口実を用意しているのがオチである。私の場合は「オッサン臭いので未成年には見えなかった」と言われるのだろうか。それならば、こちらにも甚だ迷惑な話である。
 さて、だんだん私たちのお腹もふくれてきた頃、店員が注文を間違えだすようになった。注文した数以上の串カツが届いて、普通なら「こんなもの注文してないよ」と文句を付けるところなのだが、なんと間違えて届けられた串カツの分が伝票につけられていない。これは儲かったシメシメなんて思いながら、食べていたのだった。さらにもう一つ驚いたことは、イカの一夜干しを注文しようとしたら「イカの一夜干しですか?今焼いております」との返事。注文していないのに焼いているとは、この店員は予知能力でもあるのかと(笑)。別のテーブルの注文と勘違いして言ったんだろうなと思っていると、帰り際にイカの一夜干しが届く。間違えてるとは言え、絶妙なまでのタイミングの良さ。私の家族のテーブルに持ってきたら何でも食べてくれると思ってるんじゃないだろうかと怪しみながら、愉快な店員のいる店を後にした。

 私が気になったのは、店員の馬鹿さ加減に抱腹絶倒していたときに親父が何気なく呟いた一言である。「よくできる店員はまともなところに就職して、こんな情けない奴はずっとアルバイトなんやろなぁ」。この一言を聞いて、私はニート問題に関するある論文を思い出した。去年の中央公論4月号に掲載されていた「『対人能力格差』がニートを生む」と題した論文である。書き手はニート問題の主要な論客である本田由紀氏。世間では格差社会とはヒルズ族みたいな億万長者と、ニートみたいな無産市民との学歴から生じる月とスッポンのような格差が語られがちであるが、実際にはそうでないと思う。同じアルバイトから始めた者同士の中でも、コミュニケーション(接客)能力に優れている者はその後の待遇が変わってくるだろうし、そうでない者はずっとアルバイトのまま留まらざるを得ない。こうした”対人能力の格差”はあらゆる部分で人々の間に格差を作っている。これが、より身近な格差社会の現実ではないかと思う。

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2005年6月19日 (日)

戦後60年、英霊が求めたものとは何だったか

 太平洋戦争の激戦地だった硫黄島で今日、政府主催の戦没者追悼式が開かれ、小泉純一郎首相や遺族ら約100人が参列、命を落とした2万人以上の兵士らの死を悼み、平和への誓いを新たにしたという。硫黄島は太平洋戦争で最初に本土決戦が行われた場所であり、同島に配属されていた栗林忠道中将率いる守備隊の地の利を活かした効果的な持久戦法と、しかし米軍の圧倒的な戦力の前に健闘かなわず最後に玉砕したという事実はあまりに悲壮で感動的である。この硫黄島を守備した兵士たちは一体何を想い、何を考え悲壮な戦闘を繰り広げたのだろうか。

 追悼に参加した遺族代表の松村信子さんは追悼の辞で次のように述べている。

 わたしたちは皆さま方のご遺志に思いをいたし、歯を食いしばって肉親と助け合い、豊かな家庭、平和な国を築き上げてきました。そして、日本は平和国家として世界平和に大きく貢献しています。
 皆さま方が片時も忘れなかった家族も立派に成長し、日々充実した暮らしをしております。どうぞご安心ください。
 皆さま方のご加護のたまものと存じます。このことをご報告できるのをわたしたちは心の慰めとしています。

 この追悼辞の行間から私は亡くなった御霊の想いを感じた。それは、硫黄島守備隊の兵士たちはやがて戦地になるであろう本州本土に住んでいる家族を敵の手から守りたかったことではないだろうか。守りたいものを守りたくて、過酷な戦場を戦い抜いたのではなかろうか、と。

 現在、日本の憲法9条改正に伴う自衛隊の国軍化などが活発に議論されているが、この時に60年前の戦争で死んでいった御霊たちの想いを考えて欲しいのである。かつて戦争はそれがどのような経緯で行われたにしろ、兵士たちは家族を守りたいという意志から過酷な戦場に臨んだこと。そしてそれは弱い者いじめであったり、戦争という手段自体の美化では決してないのである。私たちは御霊たちが守ろうとした家族、国民の命をこれからも守り抜いていかなければならないのである。

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2005年6月18日 (土)

飲酒が何だ、文句あるか!

 最近の国会はつまらない。小泉内閣は「今が郵政改革の正念場」と称して郵政改革に向けた論議が行われているが、国民はそんな郵政改革にも何ら興味を示していない。それは政府が郵政改革の具体的にどうなるかという説明を怠っているからであるが、とにかく国会での論議は全く国民の関心を惹くようなこともなく、これでは国民の政治意識低下は避けられない状況である。小泉内閣成立当初の田中真紀子や鈴木宗男などが活躍していた時期に比べると、今の内閣は話題になるような民間人からの大臣採用という話もなく、今までの何をやってるか分からないような”お役人”の均一な顔が揃っている。国民の政治離れを食い止めるためにも、国会にはもっと話題性が欲しいものである。

 17日夜に開かれた国会では、社民党の阿部知子政審会長が自民党の一部の議員を「酒気帯びで登院」したとして批判し、野党が投票を30分にわたり拒否するという顛末があった。結局議長の勧告で投票は行われたのだが、議会終了後に民主党が飲酒議員を懲罰するように求めてきたのに対し、自民党も相手の党に飲酒議員がいたなどと言って懲罰動議を提出するなど、水掛け議論の様相になっている。

 しかし飲酒に対して文句を言えるほどの論議を他の国会議員は果たして行っているのだろうかと私は気になる。全く国民の関心を惹かないような、あたかも象牙の塔の中で行われているような国会の論議に対して、飲酒議員よりもむしろ飲酒していない議員は何をやっているのだろうと思うのである。シラフでまじめくさってても、国民の話題にも上らないようなつまらない論議をして一方で私腹はしっかり肥やしているのはお前らじゃないか。それを考えるとむしろ飲酒をしていた方がいいのではないかと思うのである。まじめくさった雰囲気の国会の中で言いにくいことを酒の勢いに任せて言ってしまえばいい。ハマコーのような破天荒で国会の保守勢力を打破してしまうようなパワーのある政治家が今の日本には必要なのである。この際いっそのこと「無礼講国会」なんてのも作ってしまえばいいのではないか。酒の酔いの赴くままに、党派を超えて腹を割って言い合えるような、そんな国会も必要だと思うのである。国会での飲酒は認めるべきである。

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2005年6月14日 (火)

JAL機は安全か?

 私は14歳になるまで飛行機に乗ったことがなかった。赤ん坊の頃に一度乗ったことがあるらしいのだが、そんな頃の経験は覚えていない。だから実質14歳の時に中学校の修学旅行で乗った飛行機が初めてだったのである。小さい頃の私には飛行機と聞けば「墜落するもの」というイメージがあった。自動車には毎日乗っていて、そこではいつも事故をする危険があるというのに慣れてしまっているものだから気付かない。だけども飛行機は墜落事故などの報道でしか接する機会がなかったから、どうしても「墜落するもの」というイメージを払拭できなかったのだ。

 しかし初めて飛行機に乗ったときは私は14歳という分別の付く年齢になっていたし、旅行の楽しみが先行していて、肝心の飛行機の怖さは全く感じていなかった。あれから3年経った今年は高校の修学旅行がある年で、北海道への旅行に飛行機で行くのである。だが今年は重大な違いがある。なんと帰路の便で乗るのは私がいつも乗っていたANA機ではなくJAL機なのである。ANA機に乗っているときは全く事故の恐怖も感じない安全運転であったが、脱輪などの事故の報道が絶えないJALの機体は本当に安全に飛行するのだろうか。

 現在のJALは、JASと合併した後の姿である。だから当初はANAと互角に張り合えるだけの企業規模があったはずなのだが、相次ぐ事故の影響で業績が伸び悩んでしまった。このような輸送機関の企業の不祥事はどうしても脱線事故のあったJRの企業体質と比較して考えてしまう。パイロットは専門職であるから技量は十分に備わっているのだろうが、そのパイロットが不備をやらかしてしまうということは労働環境が悪いことの影響ではないかと勘ぐってしまうのである。航空機の脱輪は整備の不備が原因であることは言うまでもない。これもまたJRと同様に、企業の利益を追求する姿勢から徹底した無理なコストダウンを行った結果ではないかと考えてしまう。航空会社という限定的な市場競争があるところでは、このような事故は軽微であればなかなか見直しが進まない。それでもJALは大手企業であるから私はそれに乗るしかないのである。映画のワンシーンのような派手な胴体着陸は必要ない。安全に着陸してくれるだけで私は満足なのである。

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2005年6月12日 (日)

こら、好き嫌いをするな!

 冷戦時代の下で行われた広大無辺な宇宙開発計画は、冷戦の終結と共に縮小規模にあるが、技術の平和的利用への夢がふくらむロボット産業は急激に進歩してきている。その進歩の先端を行くのはもちろん技術大国である日本だ。日本人は人間の身近で暮らすロボットの存在を夢見て育ってきた。鉄腕アトム、鉄人28号、アラレちゃん、ドラえもん、、、これらの日本人のロボットへの憧れが現在の高い技術水準の原動力になっていることは言うまでもない。ロボット産業こそ「夢の産業」なのである。

 ところで、漫画やアニメに描かれたロボットには概して人間と同様の五感機能が備わっているのであるが、実際に現在のロボット工学で実現するのが難しいと言われているのは味覚と嗅覚だそうだ。触覚、聴覚、視覚などは物理的な法則によっているので実現しやすいが、個々の好みなどで千差万別となる味覚、嗅覚については実現が難しかったのだろう。しかしNECシステムテクノロジーは、三重大学生物資源学部の橋本教授の研究室と共同研究を進めていた、味覚を備えたパートナーロボット「健康・食品アドバイザーロボット」を開発したと発表したという。

 味覚を備えたロボットが誕生したと聞いて、私はロボット工学の技術が着実に人間の身体の機能を忠実に摸したものへと近づいてきていることを実感せずにはいられない。しかしこの工学によって人工的に作り出す味覚というものは一体何を好んで、何を嫌うようになるのだろうか。科学的には、旨み成分として有名な「グルタミン酸」を美味しさの基準にするだろうことが考えられるのだが、それが全く含まれていない食べ物だと「まずい」とでも言うのだろうか。逆にロボットの味覚は単純で、「味の素」を加えればどんな料理も美味しいと言ってくれるかもしれないが。

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2005年6月 7日 (火)

変わる日本、伝えたい不変の心

 今朝、私はいつものようにニュースを見ていた。私が毎朝見ているのは、日本テレビ系の「ズームインSUPER」だった。ニュース番組としては内容の解説もしっかりしていて、毎日見るのであった。ちなみに「ズームイン」は司会が福留功男さんの頃から見ている。

 ニュースは丁度ヨットで世界横断に成功した史上最高齢のおじいさんのことを取り上げていた。71歳になるそのおじいさんは快活に話し、しかも受け答えはとってもユーモアに富んでいた。早い話、とても元気で若いのである。ニュースは生中継でつながっているおじいさんに旅したヨットの中を説明してもらっていた。ヨットの中の生活感溢れる様子が説明された後、最後に取材していたアナウンサーはおじいさんに「最近の若者に何か一言ありますか」みたいなことを聞いた。その瞬間、おじいさんはそれまでの明るい表情から厳しい表情に突然変わり、やや口どもりながら次のようなことを話した。
「今の若者はニホン人ではなくニッポン人でなくてはならない」
「今から60年前、日本の子供たちは少年兵として駆り出されていた」
「今の若者は欧米に比べて気概が劣っている」
突然厳しい表情で喋ったおじいさんに、アナウンサーと司会は気圧されて二の句が継げない状態のまま、次のニュースへと移るしかなかったようだった。その時、朝の寝ぼけた状態だった私は、このおじいさんの話を聞いてその後一日中考えていたのだ。おじいさんは一体今の若者に何を伝えたかったのだろうか、と。

 私が一番気になったのは「少年兵」という言い回しである。60年前の子供たちは戦争という時代に翻弄されて生きていた。勉強を受けることもままならず、ある程度成長したら兵士として駆り出される時代である。おじいさんはその激動の時代の中でもなお、必死に生きた当時の子供の姿を強調したかったのではないだろうか。あの時代から60年、平和な時代に教育を何不自由なく受けられるようになった現代の子供たちが、「人権」の名の下に権利だけを訴える様子を苦々しく思っていたに違いない。今一つ最後に現代の子供に対して「甘ったれるな!」とでも叱咤したかったのかもしれない。「ニッポン」という大きな話をしている以上、他にも何か訴えたいことがあったかもしれないが、私にはおじいさんの言葉がその生きた年輪の重みと共に深く感じられたのだった。

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