2006年8月27日 (日)

他者性を持つということ

 夏休みももう終わろうとしている。ほとんど書き終えて放ったままにしていたテキストを見つけたので、掲載しておく。人々はもう忘れかけている頃だろうが、今夏報道されて話題となったカルト宗教団体「摂理」についてである。

 この団体が報道された時、私はある種の驚きを感じたものだった。なぜ驚いたかというと、「摂理」が信者を拡大していった手法が、前々から私が考えていたことと酷似していたからである。私が考えていたのは、人を信じることと、宗教を信じることとの差異とは何かということである。普通、ある程度弁舌の達者な者なら、人に何かを信じさせることは決して難しくない。が、それが宗教となると話は違ってくる。日本人に特有な気質からか、宗教というものに対するアレルギーが強く、これを信じ込ませるのは至難の業である。しかし、極力宗教的色彩を帯びない形で教理を刷り込み、サブリミナルな領域にまで浸透しきった段階で、宗教の名前を出し勧誘すればどうなるだろうか――。この問いの答えこそ、まさに今回「摂理」がやってのけた手法だったわけである。私はあまり詳しくないのだが、オウムが勢力を拡大したのもこれと同様だったそうだ。思えば、現代の新興カルト宗教はほとんどがこの手法を用いている。それでも、この罠にかかってしまう人(特に高学歴者)が後を絶たないのは、なぜだろうか。

 私が思うに、問題は宗教を信じるか信じないか、ということではない。先に述べたように、宗教名を出されて勧誘される頃には、宗教のドグマ(教理)は知らずの間に自己の内部に入り込み、同化しているのである。ここで勧誘を受け入れない場合、それは宗教を信じないものであるばかりか、自己さえも信じないことになる。つまり、問題は自己を信じるか信じないかという部分に集約されるのである。だから、多くの場合、自己を裏切ることができず、宗教を受け入れてしまう。ここで必要とされるのは、自己に対して懐疑を抱けること。さらに言えば、自己に対して常に疑問を投げかけるような、自己の内面の”他者性”が存在していることである。自己に対してでさえ疑問を抱くことができるような、内面に向き合う強さがなければ、このような宗教の勧誘手口にかかってしまうのである。仮にそれが自己に対する不信からだとしても理屈は同じで、宗教に対する自己の肯定意識に疑念を挟むことができるかが問題となってくる。今回の事件で、いとも簡単に信者が増えていったのは、それだけ現代の若者が自己の内面に向き合う強さを備えていなかったからであると言えるだろう。

 今回の事件では、勧誘のターゲットとされたのが専ら高学歴の有名大学であった。彼らが高学歴であったにもかかわらず容易く勧誘されてしまったのは、知能と内面の強さとが必ずしも比例しないことを示している。おそらく内面の強さは、自己とは何者であるかを問う実存的な思索、体験を通じて得られるものである。この問いは単純で愚直になればなるほど本質に近づくものであるから、頭の良さとは決して関係ない。むしろ広い人生経験の延長上に位置づけられるものかもしれない。とかく大切なのは、実存とは何かを見つけ出すことではなく、自己とは何かを問いかける実存的な経験である。この方法論を知っているか否かが、勧誘を拒否できるかどうかの鍵となる。

 なぜ現代の若者はこれほどまでにカルト宗教の勧誘に乗せられてしまうのか。この問題を社会的背景から捉えるならば、近年モラトリアムの期間が増えたことの他に、個人主義の浸透が原因として挙げられるだろう。現代に入って核家族化が進展し、村落共同体的なものが瓦解した。その後、共同体意識の崩壊と並行して西欧個人主義が浸透し、種々の社会システムが合理的に見直される反面、実力主義の風潮が高まった。つまり、日本社会におけるタテとヨコの繋がりが徐々に失われていったのである。そうした社会状況下では、個人は社会的な繋がりの中で自己を確立させることが難しくなった。このことによって、個人は自己を相対的に見つめ直すプロセスを経ることなく、自己の絶対化によってアイデンティティを確立させるようになったのである。自己を相対化して見ることのできる社会ならば、実存的な経験を得る機会も多いだろうし、タテやヨコの繋がりの中からカルト宗教への違和感を感じ取るきっかけを掴めるかもしれない。だが、自己の絶対化による自己確立を余儀なくされる社会では、個人は自己を拠り所にするほかないので、カルト宗教の誘惑に対してあまりにも脆弱である。

 ここまでカルト宗教に対する現代的な自己の危うさを書き綴ってみたが、私が実際にこうした勧誘を受けた場合、大丈夫だと言い切れる確信はない。ただ、「私は本当に正しいのか」という自問を忘れないように、日々精進していこうと思うものである。

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2006年5月21日 (日)

夢と現実の乖離

 数日前、「下流社会」を読了した。昨年に話題となった本だが、最近のベストセラーの傾向と違い、無闇に煽り立てるような論調でないのが良かった。文章全体は基本的にアンケートの調査結果の分析になっていて、結果から様々な仮説を立てて、「やはり下流化しているのではないか」という結論に導いていく形式である。しっかりとした内容ではあるが、ページ数に占める図表の量が多く、実質の文章量は少ないので非常に読みやすい。このエントリでは内容に深く触れることはしないので、興味を持たれた方は買って読んで欲しい。まぁ私としては、社会学者の宮台真司の結婚を批判し、その弟子の鈴木謙介を「青臭い」と一蹴している辺りに筆者の好き嫌いが読み取れて愉快であったのだが。

 この本によって印象づけられる「下流化」の概念は、既に一般的にも格差社会の文脈で当然のように論じられていることだが、論理だけで片付けられない不条理性を持つ現在の格差問題を改めて直視させてくれたものと言えよう。調査結果に基づく厳然とした事実の羅列は、理由に先んじて結果の認識を強いるものだからである。例えば、私はこの本を読み終わった後、次の報道に強い疑問を抱いた。毎日新聞5月17日付の記事である。

 日銀などでつくる金融広報中央委員会が17日発表した「子どものくらしとお金に関する調査」で、「お金よりも大事なものがあるか」との問いに小中高校生の約8割が「そう思う」と答えた。「勝ち組」「ヒルズ族」などと、成功者がもてはやされる風潮が広まるが、同委は「子供の金銭意識は予想以上に堅実だ」と分析している。
 この内容にあれっと思ってしまったのは私だけだろうか。この問いにイエスであることは、金銭意識が堅実であることを必ずしも意味するものではなく、読み方によっては「最近の子供はお金に対して興味がない」という邪推もできる(比較形の問いなので一概にそうとは言えないが)。「夢さえあればお金はいらない」という夢追いフリーター型の社会人になってしまう可能性も否定できないのである。そうした辺りを無条件に楽観視している日銀に少し呆れた気持ちになってしまう。そして、ニュースは以下のように続く。
 ライブドア事件を挟んだ昨年12月~今年3月、全国の小中高校506校、8万7447人を調査した。「お金持ちはかっこいい」との問いに「そう思う」と答えた割合は小学校低学年と高校生が2割強と、回答者の中で最も高かった。しかし、小学校高学年は同じ質問に約7割が「そう思わない」と答え、最も否定的だった。その一方で、中高生の6割以上は「お金をもうけられることはすばらしい」と答えた。
 また、1カ月の小遣いの額は、小学校高学年で平均1122円、中学生2738円、高校生5590円だった。
 おい、まてまて、私の小遣いよりも平均のほうが高いじゃないか、というツッコミはこの際関係ない。注目して欲しいのは、二つの調査結果の繋がりである。大半は金持ちがかっこいいと思わないのに、金儲けを素晴らしいことだと思っている。一見矛盾している二つの結果は「自分が金儲けできたらこの上ないが、(それができないから)金持ちは素晴らしいように見えない」という仮説を立ててみると、途端に納得いくものになってしまう。無論、二つの調査結果は調査環境が異なるものであり、安易な論理的一貫性を求めることは危険である。だが、この理由を現代の子供たちに根付く「ひがみ」として読み取るならば、それで説明できてしまうのである。先日読了した「下流社会」で述べられていた内容も、「ひがみ=下流化」として位置づけていたような気がする。とすれば、金持ちがかっこいいと答えた二割強は上流になる可能性を含んだ層なのであろうか。

 私が最近テレビ番組を見ていて嫌に思うことは、IT社長だのセレブだのといった成金を取り上げる番組が異様に多いことである。私は他人がどうだろうと構わない質なので、この手の野次馬根性には忌避感を覚えるものだが、世間の人々はこうした番組を見て何を思うのだろうか。それは、私にはなれないという諦めの感情だろうか。一昔前の人々ならば、こうした金持ちを見ても、そこまでに至る努力の過程を自分に投影して考えることができたのだろう。だが、現在の人々は金持ちになるまでの努力の過程を自分に投影して考えることができない。人々が変に賢くなってしまって、結果に隔たりがあることは、意欲に隔たりがあることと同値であると考えてしまっている。どの哲学者であったか、「”しない”ことは”できない”ことである」と言っていたことを思い出すものだが。ともかく、これが社会格差を決定的なものとしている希望格差(インセンティブディバイド)である。こうして、人々はテレビの中のセレブたちが結果・意欲の両面で自らと異なることを意識するのだ。ところが、ここに至ってテレビに「趣味を職業にしてみたら大儲けしました」なんていう人が出てくる。実際に趣味が儲け話になることは、それこそ宝くじを当てるようなものなのだが、人々はここに夢追いを正当化する理屈を見いだしてしまう。”趣味をメシのタネに”という幻想のようなスローガンを掲げて夢追い型のフリーターが急増しているのは、このようなメディアの流す情報が一因になってしまっているのではないか。私はテレビを見ながら漠然とそんなことを考えていた。

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2006年5月14日 (日)

言論のダイナミズム

 久々のエントリになってしまった。連休で崩した生活リズムを取り戻すのに多少なりとも時間がかかってしまったようである。五月病になってしまう人が多いのは、新しい環境への適応ができないという理由の他に、大型連休明けの特有のだるさみたいなものもあるかもしれない。とかく、私が更新を怠っている間にもアクセスしてくれていた人々には、ただ感謝の一言である。

 ところで、今日書こうと思う話題は、言論界におけるダイナミズム(動態)について触れたものなのだが、私は言論界を知り尽くした者ではないので、話の前提がおかしいかも知れない。また、この話題を書こうと思った私の動機は二つ。一つは、言論界における右派or左派論壇の人々が極論を述べる意図を邪推してみたかったこと。もう一つは、文章でよく見かける「ダイナミズム」という曖昧な語句の意味を自分なりにはっきりさせてみたかったことである。読者の皆さんには以上の点に留意した上で、以下を読んでいただきたい。

 オピニオン雑誌、新聞、ブログ。最近の私は、知的好奇心がどんどん増していくようで、様々なメディアに目を通すようになっている。そんな中、様々な言説に対してどうしても意識してしまうことは、それが「右」か「左」かということだ。ネットの言説に触れることが多い人にとっては最早常識となってしまったことだが、朝日新聞は象徴的な左派メディアである。人によっては朝日だというだけで軽蔑するようだ。私も朝日と聞けば、無意識のうちに身構えてしまうものだが、最近はそうした先入観を排して言説に接することにしている。なぜなら、言説が右派であろうと左派であろうと、極端な主張は現実に照らし合わせてみると、明らかに意味のないものであることが分かるからだ。というわけで、私はどのような言説に対しても「論が事実に立脚しているか」という点に留意して読むのだが、そのようにして読む習慣がついてくると、今度は極端な感情論ばかりを言い立てる主張がとりわけ不快に思えてきた。しかも困ったことに、現実を無視した突飛な言説は巷間に驚くほど満ちているのである。そうした突飛な主張が世の中に蔓延しているのはなぜだろうか。いくつか理由を邪推してみた。

 一つに考えられるのは、故意に極端な話を選んでいることである。常識的な話をしても面白くないから、極端な話で大衆の興味を惹こうという算段だ。むしろ、世の中では誰にも分かりきった正論を振りかざす人のほうが嫌がられるそうである。だが、評論家やコラムニストも一つの職業である以上は、大衆迎合のためにそうしたことを書かなければいけないのかもしれないが、世の中に関する話題で面白半分に書かれてはたまったものではない。おそらくこの理由は相応に真実であると思うのだが、私が気になるのはもう一つ考えられる可能性である。

 もう一つ考えられる理由、それは極端な主張によって世論を誘導しようという狙いがあるのではないかということだ。ある一人の言論人が、自らの意図する方向に世論を誘導したい場合、妥当な正論を唱えるよりも、妥当性を省いて主張の原理的な部分だけを取り出したほうが、世の中に対して訴えるエネルギーは大きくなる。妥当性を説明する但し書きが無くなって、主張が簡明になる点においても、世の中に訴えやすくなるのである(ワンフレーズポリティクスはこの典型と言える)。天秤に釣るおもりの位置が中心から遠ければ遠いほど、天秤は傾く。一人の主張だけで、世の中に与える最大効果を企図するならば、敢えて主張を強硬に論じ立てるのが得策なのだ。これこそが、言論に関する世の中の動態(ダイナミズム)から見た主張の作用を、最も効果的に活かす方法であると言える。

 しかし、これだけでは主張が世の中に及ぼす効果を厳密に吟味したとは言い難い。なぜなら、言説が世に対して効果を及ぼすということは、それだけ多くの人々が支持してくれるということであるからだ。極端な主張であるということは、世の中の一般的な考えから乖離していることを指す。一般性から乖離した言説が、果たして世に支持されうるのだろうか。普通に考えるならば、一般性から乖離すればするほど、広汎な支持は得にくい。いくら天秤に釣るおもりが中心から離れていようと、釣るおもりの重さ(世間の支持)が少なければ、天秤を大きく傾かせることは不可能なのである。

 だが、ここで一点目の理由を加味してみるとどうだろうか。極端な言説ほど景気のよいもので、社会の閉塞感を打破する期待を持って受け入れられることもしばしばである。だから、主張が世間の一般性から乖離していたとしても、世に受け入れられる可能性は低いとは限らないのである。一般世間が言説を理知的に判断するか、景気のよい言説を好むかは、このエントリでは詳しく論じることをしないが、私が世の中に対して感じている限りでは、最近の世間は後者の潮流であると思われる(世論の右傾化、売れる図書の傾向などから)。現在の社会の潮流が、極端な主張を浸透させやすくしているのだ。こうした理由から、言論に関して極端な説を唱えることは、十分に効果的であると言えよう。私としては、理知的でない意図のバイアスがかかった言説は受け入れがたいが、どうも世の中は私と異なっているようである。

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2006年4月26日 (水)

「進化論」の是非

 今日書く内容は進化論についての話である。折しもアメリカでは、教育現場で進化論以外にも、創造説を教えるべきだという議論が起こっているようだが、今日話す内容はそれとは全く関係ない。いわゆる「進化論的な」考え方、つまり生物学の範疇に留まらず、あらゆる物事を進化論的に捉える見方が、本当に正しいのかどうか、という話である。

 私たちが何かを考えるとき、そこには知らずの間に進化論的な考え方が浸透している。例えば、コンピュータの性能が上がっていくことや、病気に対する治療法が進歩していくことなどがそうである。私たち一人一人が経験を積んで成長していく過程も、進化論的な捉え方だと言えるかもしれない。このように、私たちを取り巻くあらゆる物事について、進化論的な考え方は当たり前になっている。すると、進化論的考え方の本質とは何だろうか。簡単に説明するならば、進化論とは一種の時系列に対する法則であると言えるだろう。過去よりも未来は良い方向へと進む。この時間の流れに対する法則を、様々な物事に当てはめて考えると、さっきの例のようになってくるわけである。

 こうして考えると、時系列に対する法則として他に何があるのかが気になってくる。身近なものよりも、もっとマクロな視点に移してみよう。例えば、経済はどのような法則が当てはまるだろうか。少なくとも、経済について先程のような進化論的な考え方は当てはまらない。経済は進歩すると言ったところで、何が進歩したと言えるのか。経済においては、世の中に流通する資金の流れが変化することを観測できるのみだ。純粋に経済だけの範疇でその変化の意義を捉えるならば、それはただ変化しただけなのであって、変化自体に良いも悪いも無いのである。経済というのは、それ自体が相対的基準であるから、進化論的考え方は当てはまらない。ところが、経済には景気循環というものが存在する。人の活動が作り出す景気には、ある一定の周期性があるというのである。

 それでは、この周期性という要素を、もっと普遍的な時系列に関する法則として捉えることはできるだろうか。政治に関して言えば、周期性という法則は当てはまらなくもない。政治に関する周期性を指摘したものとしては、有名な古代ギリシアの歴史家であるポリュビオスが唱えた政体循環論がある。ギリシアの都市国家アテネの政体の変遷から、法則性を引き出したものだ。この政体循環論は、あらゆる国家の政体変遷について、必ずしも普遍的な法則たりえるものではないが、大まかには当てはまっている。人は自らの行為を反省し、明日に繋げようとする。それが簡単に善し悪しの判断できる問題ならば、進化論的法則性が当てはまるが、個人の意志が錯綜して出来上がる政治や経済のような複雑な問題になると、問題を改善する方向性が単一ではないために、周期的な法則性になってくるのである。政治における「反動」という言葉は、このことを上手く言い表している。ある問題に対する反動として行われる改善行動には、更に別の反動がつきまとう性質がある。このゆえに、反動に対する反動の連鎖という形で、周期化してくるのである。この周期性のために「歴史は繰り返される」という言葉がささやかれるのも、もっともな話のように思える。

 周期性と進化論という二つの時系列に関する法則を見つけ出したところで、一つ考えてみたいことがある。それは、私たち人類の過去-現在-未来を繋ぐ「歴史」がこの先どうなっていくのか、という漠然とした問題である。無論、このような問題に明解な答えが出るはずもない。だが、核兵器の存在によって、それがいつかは人類を滅ぼすという危惧は消えない。「歴史は繰り返される」というありふれた言葉について考えるとき、次に全面戦争が繰り返されることは許されない事態である。このことは、技術は進化論に従ってひたすら上昇し、一方で政治は一定の宿命の中で流転しているという、二つの事象の性質の異なりから来るものだと思う。このなかで、政治を宿命的なものと位置づけずに確固とした進展を築いていくならば、歴史を二度と繰り返さないという意識は然るべきものである。情報技術が発展し、過去を簡単に顧みられるようになった今だからこそ、私たちは政治的イデオロギーに捉われない、本当に深い意味での「歴史」を学び取っていかなければならない。

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2006年4月19日 (水)

「ポスト小泉改革」に要求される理念

 数日前、少し遠くにある図書館まで、自転車で一時間程かけて行った。近所にも、住んでいる市の図書館ならあるにはあるのだが、蔵書数が少なすぎて、目当ての本が見つからないということもしばしばだったので、少し遠くまで足を伸ばした次第である。距離は往復で30kmくらいだろうか、日頃ぐうたらな私には良い運動になったと思う。図書館では以前借りていた図書の返却を済ませ、面白い本がないか探していたのだが、ざっと見た感じでは、どうしても読みたいと思う本はなかったので、結局家から持ってきていた自分の本を読んでいた。だが、せっかく遠くの図書館まで来たのである。何か読んでおかないと損した気分になるだろうと思って、今月のオピニオン誌の内容を目次で一通り確認してみた。

 いろいろ目を通してみた中で、一番私の気を惹いたのは、岩波の論壇誌「世界」の格差社会についての特集記事(題名:「小さな政府」論と市場主義の終焉)であった。格差社会問題については、社会的な関心が高まっているが、巨視的に政策としてどうあるべきかを真に論じた論文は少ない。そんな中、この論文は、日本が陥っているのと同様の状況を、英国や米国の歴史から引き出し、それを日本の現状と比較して上手く論じられていたと思う。論文の内容は若干うろ覚えではあるが、もう少し詳細に内容を検証していきたい。

 まず、注視すべきは現状分析である。小泉改革是か非かで揺れる世論の中、そうした二分論に囚われていない。そこで英国と米国の事例が引き合いに出されるのだが、サッチャリズムやレーガノミックスといった新自由主義政策は、現在ではもはや支持されていないことを書いている。また、新自由主義の問題を「小さな政府」という要素に置き換え、日本はOECD諸国30カ国内で5番目に「小さな政府」に成功した国であることをデータを用いて証明し、日本も新自由主義から脱却すべきことを主張している。小さな政府かどうかという問題は、それぞれの国が採用している運営システムなどの諸条件によっても左右されてくることだと思うので、データの引用箇所について私は懐疑的だが、国際的な流れから逸脱しているとの指摘は、それなりの妥当性を持っていると思う。

 そして、論中では新自由主義に代わる施政の方針として、英国の「第三の道」路線を批判的に継承した「参加保障型」社会という理念を打ち出している。このビジョンは大雑把に説明すると、一括投下型の現在の福祉に代えて、自立支援型の福祉を推し進め、階層間流動性を高めることに主眼を置いたものだ。一連の新自由主義政策にまつわる問題の解決策としては、リベラルな観点から解決策を探ったものとして、悪くない評価が下せるだろう。

 残念だったのは、その後の具体策の提示が今一つはっきりしなかったことである。というのは、データの引用が多かったのだが、単なる数値の合致する点を見つけることだけに終始していた感が否めず、なぜ合致するのかの論拠が希薄だったからだ。他にも、説明の難しい部分で「国民参加」という左翼論壇の典型的な”逃げ”の手法を用いていたりして、詰めの甘さが感じられた。ただし、「国民参加」の理念を実現しやすくするために、福祉政策を行う行政主体の単位を分散・縮小しようとする提案は興味深かった。

 以上のように、うろ覚えながらも私なりに読んで感じたことを書いてみたのだが、この論文の論旨には私は大まかに賛成である。なぜなら、他の先進諸国は市場主義への傾倒による失敗の経験から、福祉重視でも市場重視でもない「第三の道」を模索しているからである。一方的な市場重視路線から福祉を見直しつつあるイギリス、ドイツ、アメリカなどの国はもちろんだが、福祉大国と言われたスウェーデンでさえも、福祉重視路線から中道的路線に揺り戻しつつある。これら「第三の道」と総称される政策方針の最大の特徴は、「依存型福祉」を「自立型福祉」に切り替えることであり、英国における一連の政策は約7年の歳月を費やして、100万人以上の雇用を生み出している。何度も繰り返すが、このような効果が上げられたのは、単にモノをばらまく福祉行政ではなく、人間の自立を目指した温みのある福祉政策を施した結果である。小泉施政の功罪を問うてみたり、「ニート」というレッテルについて考えたりするのも、それなりに重要なことだと思うが、私たちが向き合っていかなければならないのは、小泉施政の次なる方針を探ることである。英国のような”生きた教訓”を無駄にすることなく、次なる日本の「像」を定めていってほしいと思う。

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2006年4月 8日 (土)

資本主義と拝金主義

 最近は季節の変わり目と言うことで、テレビをつけると特番がやっていたり、レギュラー番組が時間拡大で放送されていたりする。昨日の夕食の時間帯、私は最初プロ野球の阪神戦を見ていたのだが、阪神が守備側の時に少し退屈して別のチャンネルを回してみた。すると日本テレビ系で放送されていた番組が私の気を惹いた。司会は爆笑問題の太田光。パネラーたちが議員という役柄になって、仮の法案(テーマ)に対して討論し、賛否を決めていくという構成である。前宣伝が結構頻繁にされていたので、番組自体は知っていたのだが、討論番組ということだったので、見ようとは思っていなかった。競技ディベートをやってきた私にとって、無秩序に意見を言い合う日本の討論は肌に合わないからである。発言者ごとに時間を決めて議論を行う競技ディベートに比べて、日本の討論は声の大きさだけで押し切って議論が行われる場合も多い。そこでは、論の優劣とは別の要素で争われている場合がしばしば見受けられるのである。ちなみに、私がその番組を嫌がったもう一つの理由は、いくつかの討論番組でアナキスト的言動を繰り返す爆笑問題の太田が司会だということだった(笑)。

 討論番組が嫌い、でもついつい見てしまう、というのが私の性分である。昨日もお題が気になって思わず見てしまった。お題は「60歳未満の株式投資を禁止すべし」である。議論の内容を一見した感じでは、拝金主義是か非かという雰囲気であった。私はこういうお題だったら、まず年齢制限の意味を問うことから始めるのにな、と思ってしまったものだが(終わらない資産バブル・後編を参照)、この問題を広義で捉えるならば、拝金主義是か非かの問題は避けては通れないことである。

 「拝金主義」というのは、近年の格差社会や金融の問題を語るときにしばしば聞かれる言葉である。全ての事柄を金で評価する、「金は天下の回りもの」といったような風潮をさげすんで言う言葉だ。だが、私はこの言葉がもっともらしく語られる風潮に若干の懸念を抱かずにはいられない。なぜなら、日本という国家自体が資本主義の論理によって動いているからである。「拝金主義」という言葉の内実は「資本主義」の裏返しに過ぎない。そして、私たちは資本主義を否定する論理を持ち合わせていないのである。拝金主義云々と言ったところで、私たちの国家、生活、全ての事柄において資本主義の論理が働いている限り、私たちはその呪縛から逃れられないことを理解しなければならない。

 私たちは、資本主義に対して肯定とも否定とも付かぬ曖昧な態度をとってきたことで、様々な損害を被ってきたことも知らなければならないだろう。それは最近話題になっている株式投資についてのことである。私自身が株についてどういう関わりを持っているかについては、敢えてノーコメントとさせていただく。だが、株式市場について少しでも知見を持っている者は、日本の株式市場が外国資本の思惑によって簡単に動かされていることに気付いているはずだ。90年のバブル経済、そして最近の好況も、全て裏で糸を引いているのは外国資本であった。彼らが資金を動かすことによって、私たちは一喜一憂し、そして最後にはバブル崩壊が起こり私たちは損をしてきたのである。しかし、それにもかかわらず、日本の風土は自らに損をさせてきた資本主義の敵役に立ち向かおうとはせずに、ただ異議を唱えてきただけだったのだ。私たちは、日々の労働で得た金が外国資本に吸い取られているという屈辱的な現実に立ち向かわなくてはならない。それにはまず、外国資本と対等に戦える一線級の投資家の養成が求められるだろう。確かに日本では昔から金に関わる職業は下賎とされてきたが(注1)、一方でルパンや鼠小僧のような「義賊」が人気を博してきたことも事実である。そこで、日本の投資家を外国資本から国民の財産を守る「義賊」として位置づけることはできないだろうか。若干誇張表現ではあるが、今の日本に金融の舞台で国を守る戦士が求められていることは紛れない事実である。

 ここまで私は金融の重要性を述べてきたのだが、拝金主義という言葉に全く共感しないわけではない。むしろ、私も雑感としては、あらゆるサービスに対して対価を求めようとする風潮に強い反感を覚える。あらゆる事柄が契約関係によって支配されていくようになれば、人間の心と心の豊かな対話は閉ざされていってしまうからである。特に教育などの場面においてはそれを強く感じる場合も多い。だが、私がここで問題だと思うのは、契約社会理念が浸透しすぎているということではなく、むしろ道徳教育が衰退していることである。私たちが「拝金主義」と呼んで蔑視する問題も、道徳教育が一方的に衰退したことによって、資本主義的な現実が明らかになってきたことへの反感に過ぎないのではないだろうか。だとすれば、資本主義の論理の一方的な否定に終始せず、道徳教育を立て直すという前向きな作業こそが求められるべきものであると私は考える。


注1:このことは中世~近代の欧州においても例外ではなく、金融業を営んでいたのは下賎の民と言われていたユダヤ人であった。世界に名だたる大財閥のロスチャイルド家も元をたどれば、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人居住区)で金貸しをしていた一族に過ぎない。彼らがその後の躍進を遂げたのは、プロテスタンティズムの合理精神が世間に浸透したからだという見方が多い。


追伸
 今回のエントリは前回から実に一週間ぶりになる。理由は話のネタ切れである。過去ログ一覧を見てもらっても分かるように、このブログは更新のタイミングがとてもまばらだ。こんなペースの更新を続けていては、読者がいつまでたっても寄りつかないだろうと思うので、ここで更新ペースを定めたいと思う。とはいえ、私は今年受験生であるので、基本的に忙しい。だから、自分でも無理の無いように、週に最低一回更新をこれからのペースとして定める。読者諸氏は、週のいつに更新がされるのかなぁという気持ちで毎日閲覧していただければ幸いである。

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2006年3月28日 (火)

品格ない本が売れる背景

 昨日は「国家の品格」について、結構散々な書評を書かせてもらった。私はあのような本が嫌いなのであるが、どういうわけか世間ではあの本を評価する人は結構多い。それはなぜだろうか。今日はその疑問から出発してみたいと思う。

 まず、あの本を評価する人が言うのは、分かりやすかったということである。確かに最近のベストセラーになる本は、分かりやすい。何が分かりやすいかというと、読みやすく工夫されている構成もさることながら、著者の主張が簡明であるという点が大きいと思う。「国家の品格」もそうであったが、少し毒舌なくらいに著者が主張するというスタンス(こういうところが品格に欠けると思うのだが)が受けているようである。ただ、そうした簡明さを重視する場合は、当然のことながら簡明さゆえの弊害も考えなくてはならない。例えば、昨日私が槍玉に挙げた論理性を否定している記述にしても、あの本をよく読み込めば著者が論理の必要性も認めていることが分かる。だから、私が行ったような批判は、あの本を精読した人に言わせれば、間違っているのである。しかし、あの本は簡明さを重視するあまり、論理の否定に力を注ぎすぎていて、論理の必要性についてはほとんど語っていない。それは多くの人に表面的な理解から来る誤解を与えかねないものであり、素人受けする本では尚更のことである。私はそうした点を危惧しているのだ。だから、私が昨日紹介した書評で、

ちなみに僕が藤原正彦だったら、「自由、平等、民主主義は形だけ真似してもダメだ。これらを成り立たせるには情緒や品格が必要である。そのためには日本は武士道精神を復活させるべきだ」というように書いたでしょう。
と書かれているように、”情緒や品格が必要となるのは、合理主義という基盤だけでは不完全だから”という部分を強調すべきだったように感じる。些細な但し書きに過ぎないが、それの有無だけで読者の印象も大きく違ってくるのである。そうした細やかな気配りこそ、プロのオーサーに求められるものではないだろうか。

 また、最近のベストセラーの多くは、主張を簡明に表現するために本の構成が練られている部分も見逃してはいけない。それらに共通しているのは、構成が”主張先行型”であるということである。主張先行型の本の構成は「著者はこういう主張である」という書き出しで始まり、「その主張がどう良いか」という記述が続いていく。しかし、不思議なことに、こうした本の多くには「なぜ著者はその主張が良いと判断するのか」という前提部分が一切欠落しているのである。ここで気をつけて欲しいのは、「主張がどう良いか」と「なぜ主張が良いのか」は全く別の問題であるということだ。前者は主張の「良い部分」にしか着目していないのに対し、後者は主張の「良い部分」と「悪い部分」の双方に着目している。無論、ものごとを考える場合に求められる姿勢は後者である。前者は極めて盲目な姿勢だと言わざるを得ない。

 しかし、それにもかかわらず、現実は前者の姿勢をとる本がよく売れるのである。私はこの現実に対して、一つの強い危惧を抱く。それは、民衆の間に主張を無批判に摂取する風潮が広がっていることである(以前のエントリでもこの可能性を指摘した)。主張が正しいかどうかということを吟味しなければ、最近のベストセラーほど愉快な本はない。著者は自らの主張が正しいことを暗黙の前提にして主張の良さを語るからである。このとき、著者の主張が正しいか否かの判断は全て読者の側に委ねられていることを注意しなくてはならない。さもなくば、読者は読後の爽快感の代償として、自主的な思考を奪われてしまうだろう。悪意に満ちた宣伝に誘導されないためにも、善悪兼ね合わせた判断は必須である。だが、現在のベストセラーの傾向を見ると、社会が誤った方向に足を踏み出しているように思われて仕方がない。これがただの危惧であるならいいのだが。

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2006年3月15日 (水)

格差社会に対する論考

 格差社会問題に関するエントリを二日に渡って書いてきたが、そろそろこの問題にもケリをつけていきたい。今日のエントリで私の格差社会に関する一応の一貫した見解は提示してみるつもりだが、それを完全な見解だと言うつもりはない。ただ私としてはこれで首尾一貫していると思うし、結構満足である。だが、それでもまだ足りないと思われる方には是非ご指摘いただきたい。

新保守主義の台頭
 前回のエントリでは、小泉改革に格差社会の責任を問う声が高まっていると書いたが、なぜ小泉改革が批判されるのか、その部分をもう少し丁寧に整理してみる必要があるだろう。言うまでもなく、小泉首相が改革してきたのは徹底した規制緩和と官営企業の民営化である。これは自由競争の原理を導入することによって競争を活発化させる意図に基づく。それまでの政府が富の分配を統御して、福祉を充実させてきた政策方針とは全く逆の方向を行くというわけだ。小泉首相自身も、福祉重視の「大きな国家」から市場重視の「小さな国家」に移っていくことを肯定している。そして、このような改革が以前に行われた事例を探してみると、70年代後半~80年代前半にかけてのイギリスで行われたサッチャー首相による新保守主義政策が酷似していることに気付く。
 サッチャー首相が行った新保守主義政策とは、福祉政策が充実しすぎてしまったことにより、パターナリズム(父親的温情主義)化してしまっていた状況を打破しようとした一連の政策を指す。当時のイギリスは、福祉政策で国民の生活を保護しすぎたために、財政赤字の拡大が深刻化する一方で労働組合が強大化し、日常茶飯事となったストライキが経済活動を麻痺させていた。その深刻な状況を指して「英国病」と呼ばれたほどである。福祉政策によって必要最低限の生活が保障されるようになった国家は、ある面において社会主義国家と何ら変わらない。社会主義国家が、その意図とは逆に生産意欲の減退によって滅んでいったように、福祉政策をあまりに充実させすぎた弊害は人々の労働意欲の減退に現れるのである。そしてサッチャーは、そうした状況を新保守主義政策によって見事に立て直した。
 この80年代イギリスの新保守主義と、現在の小泉改革とを比べてみよう。先進国中で最も福祉政策の充実度が高いと言われる日本は、当時のイギリスの状況と変わらないと言えるだろう。日本では国民皆年金が導入されている上に、公的扶助の保護は手厚く、働かなくても国の補助だけで生活していけるような福祉基盤が整っている。次に、福祉基盤の上にたつ人々の意識はどうか。イギリスでは「英国病」と呼ばれる労働ストライキの頻発があったのに対し、日本ではニートやフリーターの増加など、積極的な労働意欲を発揮していない人々の姿が共通している。労働ストライキとニートとは、違う問題のようにも思えるが、それは日本の経済社会に特有な構造が影響している。そのことについては後で詳しく述べたいと思う。そして最後に、国が社会に対して行う政策。小泉改革はまさに規制緩和と民営化が主軸で、サッチャー時代の新保守主義政策と何ら変わりはない。以上より、現在の日本は新保守主義が台頭した当時のイギリスとほぼ同質の社会状況であると言えよう。

格差形成の過程
 「格差」とばかり言い続けてきたが、この言葉は様々な言い換え表現が可能だ。これから話していく格差の問題を分かりやすくするために格差を「階層化」という表現に置き換えて考えてみたい。まず、日本における戦後最初の階層化は、日本的経営の要である年功序列型賃金制によって起こったと言っていいだろう。仕事の内容に拘わらず、勤続年数で一律に賃金をつり上げていくという制度は、年齢で賃金が異なるという階層化をもたらしたのである。その年功序列社会の中で、年配の人々は社会の「上層」に固定され、動かなくなった。この話は前回のエントリで触れたのと同様で、能力があるのに上層に上れない若い人々が不満をもち、年功序列体制の世の中に突破口を見いだそうとしたのである。若くして実力で経営者になるという、今もブームになっている風潮がまさにそうで、その中で生まれた「ホリエモン」などはその典型であったと言って良い。本来彼らは社会の階層固定化の状況を打破する「ヒーロー」として世に迎えられるはずであったのだが、彼らに対しても別の批判が加えられるようになる。それは彼らの多くが難関国公立大学出身者であることから指摘され始めた「学歴格差」という問題である。
 年功序列社会における「下層=若者」から現れたヒーローであるはずのホリエモンが、逆に別の格差上の「勝ち組」として批判が加えられるようになった。世間から期待されるはずであった人物がすぐさま次の槍玉に挙げられるという状況を私は非常にいぶかしく思う。このことを肯定してしまえば、「格差問題」の原因は「負け組」の勝者に対するルサンチマンに過ぎないという夢も希望もない結論になってしまうからである。社会のシステムに何ら問題はなかったのか、そのことをもう一度検証し直す必要があると思う。

「下層」とは一体何か
 問題を検証し直すにあたってまず考えたいのが、「下層」とは一体何なのか、という問題である。このことを明らかにするのは「下層」と対極に位置する「上層」の研究も欠かせない。簡単にまとめよう。「上層」とは年功序列制によって画一的に上がってきた年配者層を意味する。そして、これら上層の中に穿孔を穿ったのが「ホリエモン」を中心とする若手経営者たちである。彼らは「実力主義」の論理を元に上層にのし上がった。それを基に考えると、現在の「下層」に位置づけられる者たちは、単に「年功」と「実力」という二つの物差しに引っかからなかっただけの層ということになる。世間では「切り捨てられた層」と評されるが、彼らにしてみればそんなことはない、ただの「残っている層」であるのだ。そういう意味では、「負け組」に代わって囁かれだした「待ち組」という表現は単なる言い換えではなく、この問題の本質を言い得ている。
 しかし、普通なら「取り残された者=下層」という図式は簡単には成立し得ないはずである。なぜなら、彼らはただ上層にいないだけなのであって、それがいきなり上層と対極に位置する下層になってしまうことなど無いからだ。彼らを社会問題になるほどの「下層」という存在にしてしまったのには、きっと外的な要因が存在するはずである。単なる”上流ならざる者”であるはずの彼らを「下層」にしてしまった原因、それは日本の行き過ぎた福祉政策である。福祉政策があまりにも充実した社会の下で、彼らにとっては上を目指すよりも、下に留まっていた方が楽だったのである。それが彼らに依存することを覚えさせた。また雇用主である企業が安い働き手を求めた結果、フリーターが増加し彼らに勤労意欲を失わせたのだ。それが巨大化する「下層」の現実であると、私は考える。

「下層」を奮起させよ
 先程分析したように、上層に乗り遅れた者たちが揃って下層化してしまうのは、彼らが何も考えずに生きているからではなく、むしろ合理的にコストとベネフィットを判断しているからだと言える。上層から取り残された彼らが上層を目指す場合、確かに上層になることには巨大なベネフィットが存在するが、上層には先に上ってしまった者が多くて、そこに入り込んでいくためにはより多大な努力(コスト)が要求される。それに対していっそ上層のベネフィットへの執着をあきらめて下層に下り、そこに留まってしまった方が、国の補助というある程度のベネフィットが保障される上に、伴う努力(コスト)が必要とされないので、彼らにとっては楽な状態を簡単に実現できるのだ。
 これは国が福祉政策を進め、ナショナル・ミニマムを充実させてきた結果であり、この点において冒頭で述べたイギリスと日本の社会状況の一致が改めて強く感じられることだろう。そうなれば、日本が採るべき政策方針は明白である。思い切った福祉政策の漸減、それによって「下層」に危機感を与え、彼らを奮起させる必要があるのだ。こういう風に書くと、下層の切り捨てをより一層進めているという批判を受けそうだが、彼らは切迫した状況に追い込まれたとき、意外なほどに奮起し労働意欲を現す。(詳しくは切込隊長氏のエントリ参照)それに、今のニートやフリーターに最も必要なのは「保護」ではなく「自立を支援すること」であり、国の一律的な福祉政策だと得てして「保護」だけになってしまいがちであることを心得なければならない。もちろん彼らの中では本当に切り捨てられてしまう人は出てくるだろう。だが、切り捨てられた人々の支援をできるのは国以外に本当にないのだろうか。その点、欧米諸国では民間のNGOやNPOが発達していて、庶民に近い視点に立った「草の根」支援を行うことができている。しかし日本の社会はそれとは対照的に、民間がそうした社会的責務を背負うことを忌避し、国の責任にしてしまっている。社会の底辺の人々に単なる物資ではなく、「自立する心」を支援できるのは、きめ細やかなサービスを行える民間の草の根運動に他ならない。それなのに、日本が伝統的にもってきた「ムラ社会」の意識は、自治のための共同体ではなく、異質なものを排除する閉鎖的共同体としてのみ機能してきたのではなかったか。自らが下層に陥ってしまうリスクを社会的にプールしていくという福祉の発想の原点は、国家が政策としてシステムだけに現すのではなく、それを同時に支えていく社会全体の意識なくしては活かされない。まず要求されるのは、意識の改革なのである。

 結論として、格差社会の根本的解決のためには果断な政策によって下層の意欲を奮起させる必要があること。そして社会全体でそれをバックアップしていくという意識なくしては、下層からの個々人の本質的自立が成し得ないことを改めて強調するものである。

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2006年3月14日 (火)

格差意識の奇妙なズレ

 最近の政治では「格差社会」という言葉がよく取りざたされる。小泉改革では規制緩和、民間委託による市場競争力の強化を意図してきたが、その競争が激化することによって富裕層と貧困層との格差が拡大するという論理である。こうした格差社会について、小泉改革の責任だとする質問がこのところ国会で取り上げられているが、たかだか始まって3,4年しか経ってない小泉改革でその影響がすぐに現れたというのは嘘だろう。問題は何らかの理由で現れた格差社会をどう解消していくかであり、責任の所在をわざわざ問うところに未熟な政治が現れているような気がする。さて、その格差社会がどういう原因で起こったかを分析するのはもっぱら評論家の仕事であるわけだが、今月発売の月刊誌はこぞって格差社会をテーマに取り上げているという。私が毎月愛読する中央公論もその例に漏れない。
 格差問題に対する評論はそれぞれ読んでいくと、さまざまな分析があるなと思わされる。社会全体の動きを分析したもの、格差中の一部の人々の視点に立っているもの、経済的側面から分析したものなど。この格差問題はさまざまな問題の複合で成り立っているが故に、一筋縄にはその病巣が見えてこないものだということを思い知らされた。こんなことを書いておいて実は、私の中では格差問題に対する一貫した見解がもう既に出来上がっているので、その完全版は明日書くということにしておく。今日は格差問題の一つの側面として挙げられる「希望格差社会」「インセンティブ・ディバイド」に関して疑問を提示してみようと思う。

 ニートや若者の視点に立ってこの問題を考えると、浮かび上がってくるのは揺るぎない「上層」の存在である。自分たちよりも遥かに年上で経験も豊富、そんな人たちが会社の役員級の人材になって高い給料をもらい、周りから尊敬される人物として悠々自適な余生を送る。ちょっと極端過ぎるかもしれないが、若者である私たちが一般的に社会の上流層に対して抱いている観念はそんなものではないだろうか。この何気ない観念から導かれる上流層の姿は、戦後の年功序列型賃金制の中で形成されたイメージだと言える。そして私たちがそんな上流層をイメージしたときに思われるのは、「どれだけ仕事を頑張っても、年をとらなければ上流層にはなれない」という一種のあきらめにも似た思いである。戦後の年功序列型賃金制の結果、年齢による階層が超えられない壁となってしまい、私たちは必要以上に頑張ることの無意味さを感じ、労働意欲が低下した。この状況が若者である私たちの労働に対する無気力の原因になっていることは十分に言えるだろう。
 しかし、そうした閉塞的な状況も一変する。それは西欧合理主義に範をとった「実力主義」の風潮である。企業に入社して年をとらなければ上流層になれないのなら、自分でのし上がって上流層を勝ち取ってやろうという考え方が若者の間に浸透し、閉塞感の中で鬱屈していた精神が、逆に起爆剤となって彼らに下克上を成し遂げる力を与えたのである。彼らは「実力」を元にのし上がり、社会の上流層に成り上がった。そんな彼らは「ヒルズ族」などと呼ばれるようになって、世間でもてはやされた。「ホリエモン」などはその一典型であったと言って良い。まさに彼らは今まで年齢の階層の中で上流層ではない部分に位置づけられていた者たちであり、彼らがのし上がるという現象は全ての「上流ならざる者」に希望を与えるかに見えた。しかし、「ホリエモン」が一躍人気者になったことで、彼が上流層になれたのは学歴があったからだ、というような批判も聞かれるようになった。”上流層にのし上がった者を、別の理由から固定化した上層に位置づける”というこの状況が、私には奇妙でたまらない。社会の「上流ならざる者」はこうもひねくれた精神の持ち主であるのか、或いは二分化された世論を私が一元化して誤解釈してしまっているだけなのか。原因はどちらでも無さそうだと思う私は、もっと深い奥があることを勘ぐってしまうのである。

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2006年3月11日 (土)

皇位継承問題を巡る議論のスタンス

 永田議員がメール疑惑で派手に自滅してしまってから、メディアは自民党と一緒に民主党叩きに必死の様相であるが、民主の「4点セット」追及姿勢が出来上がる前、一時世間を沸かしていた話題は皇位継承問題であったことを思い出していただきたい。紀子様ご懐妊のニュースによってこの問題が引っ込んだことで、「この問題について今は触れるな」という世間の気風があるかもしれないが、皇位継承に関する問題は紀子様のご子息が男女どちらであろうと、いずれ本質的に避けては通れない道であると思われる。中央公論4月号でも「紀子様ご懐妊で、大局を見失うな」という記事でこの問題を論じる必要性を訴えている。
 この議論を巡っては、有識者会議で多数を占めた「女系天皇賛成派」と、それに対し一部のコアな保守層を中心に形成された「女系天皇反対、男系維持派」に分かれる。女系天皇と女性天皇の違いについて、メディアでは意図的なほどに詳しく取り上げることをしなかったので、世論がどのような流れか、ということはこの議論の正統をどちらかに決定する要素にはならない。しかしながら、女系賛成派は緩やかな保守層も巻き込む形で広い支持を得ており、紀子様のご懐妊がなければ、議論の趨勢が女系を是とする方向に進む可能性が高かった。愚見を述べさせていただくと、この問題は女系天皇とすることで女性の地位向上を暗に狙ったフェミニズム的な背景があるような気がしてならないのだが、そのような先入観を排して問題を巡る両派のスタンスについて考えてみた。

 まず至極簡単なことからまとめていくが、この議論において両派がとっている立場は、女系賛成派は文字通り現状の制度を女系天皇容認に「改革」することであり、男系維持派は女性天皇をやむなく承認するとしても出来るだけ「現状維持」をしたい構えである。両派に共通する見解は(一部の極端な意見を除いて)、次世代の女性天皇容認は状況によりやむなし、という点だ。
 この両派の立場について確認した上で女系賛成派の改革の理由から見ていきたい。改革派の理由は、私が見てきた限りでは次の二つに大別できると思う。それはすなわち、
 1.天皇が男系である必要はない
 2.これから先に天皇家に男子が生まれてこず、今回と同様の問題が起こる可能性を危惧して
である。私としては二点目の指摘は至極妥当なように思う。それが現実的な視点に基づいた制度論だからである。男子が生まれない可能性を肯定するのが無前提であることなど課題点は多いが、この点によった主張ならば議論を煮詰めていく価値があろうかと思う。
 しかし、女系賛成派の主張を聞くと、一点目の主張をする人が圧倒的に多いことに気付く。そして私はこの主張にとても懐疑的だ。それはなぜか。この種の主張は真の意味で自らの主張とは言えないからである。もう一度よく考えて欲しい。この主張は、天皇が男系である必要性を否定しているが、あくまでも男系である必要性を否定しているに過ぎず、この主張単独では女系である必要性を立証していないのである。無論、現在の状態の否定に加えて、女系にする論理的必要性を述べているのなら良い。だが、現実の論争を見てみると、女系賛成派が「男系である必要がない」と言うのに対して、男系維持派も「女系にする必要はない」と言い返しており、結局のところ両派共に男系or女系”である”必要性を論理的に訴え得ていない。”である”必要性を訴えるときに引用されるのは、歴史や神話のつじつまから取ってきたような論拠であり、それはどちらの解釈にもなりうるという点において、もはや論争は「神学論争=価値観・イデオロギーの対立」の様相を帯びてきている。

 話を元に戻そう。私がここで問題にしたいのは、「主張Bの否定⇒主張Aの肯定」という誤った論理構成であり、こういう点で公然と詭弁の応酬が行われていることに論争に参加している識者たちは気付かなくてはならない。「主張Bの否定⇒主張Aの肯定」の論理が成り立つのは、現状があまりにも酷すぎて、それに代わる案ならどんなものでも現状を少しはマシにしてくれるだろう、と世間一般が信じて疑わない場合のみであり、その場合にのみ、主張Aの肯定を個別に論証するプロセスを省略しても構わないのである。
 この皇位継承問題に関して言うと、現状(この場合、両派が認めている女性天皇の一時的擁立がそれにあたる)に致命的な問題があるとは言えず、それを敢えて改革する必要を訴えるならば、現状に比べて改革案が明らかに優れているという論証がなくてはならない。だから、改革派が現状維持派に対して議論の優越性を明確に証明し得ず、この論争が引き分けである以上は、現状を変える積極的な必要性が認められないのだから、結果的に現状維持の立場をとるべきである。競技ディベートの世界では、議論が引き分けた場合には「ブレーク・イーブン」として現状維持派の勝利となることが決められている。現状を改革するのは、良い点悪い点共に可能性が未知数であり、それなら可能性がある程度見えている現状のほうが安全であるという論理に基づく。資本主義に対するアンチテーゼとして形成された社会主義理論が実際の国家になったとき、その内実が粛正の嵐が舞う凄惨なものになることを誰が予測できたであろうか。
 この故に、私がこの問題に対して論理的な結論を下すならば、男系賛成派でも、女系賛成派でもない、「穏健派」として現状維持を主張するものである。

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