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2006年8月24日 (木)

「普通の国」になるということ

 昨日の夕方のニュースで独立総合研究所首席研究員の青山繁晴氏が北朝鮮の地下核実験が近々行われるという報道に関してコメントしていた。青山氏は現在の状況を全く楽観すべからざるとした上で、この事件を受けて日本が悪く変化してしまわないように訴える。特に、北朝鮮の核武装に対して日本も核武装しようという意見が出てきていることについて、深い嘆きと核武装反対の意を表していた。青山氏は現職の国会議員に対するアンケート調査で全体の6割が核武装を視野に入れている(賛成というわけではない)ということを挙げた上で、東大で講義した際の話として、成績優秀な学生が核武装論に対して何ら疑問を抱かなかったこと、そして彼らに対し、日本の平和主義は単なる政策ではなく”哲学”である、と語ったことを紹介していた。

 核武装に関する私の基本的スタンスは過去のエントリで書いた通りなのであるが、やはり日本が核武装や再軍備をして「普通の国」になることにはデメリットが多いな、と改めて思う。まず日本が核武装をすれば、日本が先頭に立って推し進めてきた世界の非核化を目指す種々の会議が台無しとなり、日本は世界各国から強い非難を受けることとなる。のみならず、核保有への非難の力が弱まったことを受けて、その後の核保有国が増えていくことになるだろう。再軍備をするにしても、世界各国はそれを日本がどこかへ侵略を開始するメッセージとして受け取るかもしれない(これは東アジアに限定したことではない)。どのみち、日本は世界の強い非難を受けることになる。一方で、そうすることのメリットは、明晰な東大生の頭では何か考えつくのか知らないが、単独で国家に侵略行為を行えるようになる、ということくらいしか考えられない。そして、日本の立場はと言うと、60年間続けてきた平和主義、非核原則をかなぐり捨てた「普通の国」になるが、そこで平和主義に変えていかなる主義原則を持ち出そうというのか。青山氏の発言の核心はおそらくここにある。核武装や再軍備という行為は、単独の政策のように、後でやり直しのきくようなものではなく、現在の日本外交の基盤そのものを変化させてしまうような抜本的なものなのである。こうした抜本的な変化の後では、再び日本が平和を唱えることがあろうとも、世界には武力侵略を行いながら平和的行為と宣っている現在の米国と同等に映るであろうことを、自覚しておかなくてはならない。

 私が改めてこのような「平和・非核論」を書いたのは、青山氏が発言の中で核武装を容認するような意見が増えていると触れたことに衝撃を受けたからである。こうした意見の増加の背景とは何か。すぐに世論の右傾化という言葉が思い当たるが、さすがにそれは違うだろう。私が思うに、リアリズム的な視点が広く定着し、強まってきたからではないだろうか。つまり、感情論に囚われない冷静なものの見方が、逆に価値というものを見えなくさせてしまったのでは、と私は推察する。というのは、核武装を容認する方向の政治家や、その東大生もおそらくは、実際の核や武力の行使を意図してではなく、それらの保有自体を一つの外交カードとして、或いは世界各国と日本とを相対的なものとして見た結果であっただろうからである。

 そもそも、リアリズム即ち現実主義という言葉には、感情や理念と決別した単なる現実の後追いというネガティブなイメージがあった。私の想像通りだとすれば、前述の核武装容認論者たちはまさにこういうイメージに合致してしまう。では、現実主義をこうしたネガティブなイメージを排したものにするにはどうすればよいのだろうか。日本における戦後現実主義論壇の立役者である故・高坂正堯先生の言葉はとても示唆に富んでいる。

国際政治に直面する人びとは、しばしばこの最小限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある。それゆえ、国際政治に直面する人びとは懐疑的にならざるをえない。しかし、彼は絶望に、道徳的要請をかえりみないようになってはならないのである。
高坂正堯著「国際政治―恐怖と希望」p202

 いかにも、感情論に走って現実を省みないようになったり、ひたすら冷めた目で現実を見たりするだけに終始するのは簡単である。しかし、そのどちらにも偏らず、希望をもってその中間を歩んでいくことこそが、生きた現実主義の真のあり方ではなかろうか。

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