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2006年8月27日 (日)

他者性を持つということ

 夏休みももう終わろうとしている。ほとんど書き終えて放ったままにしていたテキストを見つけたので、掲載しておく。人々はもう忘れかけている頃だろうが、今夏報道されて話題となったカルト宗教団体「摂理」についてである。

 この団体が報道された時、私はある種の驚きを感じたものだった。なぜ驚いたかというと、「摂理」が信者を拡大していった手法が、前々から私が考えていたことと酷似していたからである。私が考えていたのは、人を信じることと、宗教を信じることとの差異とは何かということである。普通、ある程度弁舌の達者な者なら、人に何かを信じさせることは決して難しくない。が、それが宗教となると話は違ってくる。日本人に特有な気質からか、宗教というものに対するアレルギーが強く、これを信じ込ませるのは至難の業である。しかし、極力宗教的色彩を帯びない形で教理を刷り込み、サブリミナルな領域にまで浸透しきった段階で、宗教の名前を出し勧誘すればどうなるだろうか――。この問いの答えこそ、まさに今回「摂理」がやってのけた手法だったわけである。私はあまり詳しくないのだが、オウムが勢力を拡大したのもこれと同様だったそうだ。思えば、現代の新興カルト宗教はほとんどがこの手法を用いている。それでも、この罠にかかってしまう人(特に高学歴者)が後を絶たないのは、なぜだろうか。

 私が思うに、問題は宗教を信じるか信じないか、ということではない。先に述べたように、宗教名を出されて勧誘される頃には、宗教のドグマ(教理)は知らずの間に自己の内部に入り込み、同化しているのである。ここで勧誘を受け入れない場合、それは宗教を信じないものであるばかりか、自己さえも信じないことになる。つまり、問題は自己を信じるか信じないかという部分に集約されるのである。だから、多くの場合、自己を裏切ることができず、宗教を受け入れてしまう。ここで必要とされるのは、自己に対して懐疑を抱けること。さらに言えば、自己に対して常に疑問を投げかけるような、自己の内面の”他者性”が存在していることである。自己に対してでさえ疑問を抱くことができるような、内面に向き合う強さがなければ、このような宗教の勧誘手口にかかってしまうのである。仮にそれが自己に対する不信からだとしても理屈は同じで、宗教に対する自己の肯定意識に疑念を挟むことができるかが問題となってくる。今回の事件で、いとも簡単に信者が増えていったのは、それだけ現代の若者が自己の内面に向き合う強さを備えていなかったからであると言えるだろう。

 今回の事件では、勧誘のターゲットとされたのが専ら高学歴の有名大学であった。彼らが高学歴であったにもかかわらず容易く勧誘されてしまったのは、知能と内面の強さとが必ずしも比例しないことを示している。おそらく内面の強さは、自己とは何者であるかを問う実存的な思索、体験を通じて得られるものである。この問いは単純で愚直になればなるほど本質に近づくものであるから、頭の良さとは決して関係ない。むしろ広い人生経験の延長上に位置づけられるものかもしれない。とかく大切なのは、実存とは何かを見つけ出すことではなく、自己とは何かを問いかける実存的な経験である。この方法論を知っているか否かが、勧誘を拒否できるかどうかの鍵となる。

 なぜ現代の若者はこれほどまでにカルト宗教の勧誘に乗せられてしまうのか。この問題を社会的背景から捉えるならば、近年モラトリアムの期間が増えたことの他に、個人主義の浸透が原因として挙げられるだろう。現代に入って核家族化が進展し、村落共同体的なものが瓦解した。その後、共同体意識の崩壊と並行して西欧個人主義が浸透し、種々の社会システムが合理的に見直される反面、実力主義の風潮が高まった。つまり、日本社会におけるタテとヨコの繋がりが徐々に失われていったのである。そうした社会状況下では、個人は社会的な繋がりの中で自己を確立させることが難しくなった。このことによって、個人は自己を相対的に見つめ直すプロセスを経ることなく、自己の絶対化によってアイデンティティを確立させるようになったのである。自己を相対化して見ることのできる社会ならば、実存的な経験を得る機会も多いだろうし、タテやヨコの繋がりの中からカルト宗教への違和感を感じ取るきっかけを掴めるかもしれない。だが、自己の絶対化による自己確立を余儀なくされる社会では、個人は自己を拠り所にするほかないので、カルト宗教の誘惑に対してあまりにも脆弱である。

 ここまでカルト宗教に対する現代的な自己の危うさを書き綴ってみたが、私が実際にこうした勧誘を受けた場合、大丈夫だと言い切れる確信はない。ただ、「私は本当に正しいのか」という自問を忘れないように、日々精進していこうと思うものである。

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