« 2006年7月 | トップページ | 2006年12月 »

2006年8月27日 (日)

他者性を持つということ

 夏休みももう終わろうとしている。ほとんど書き終えて放ったままにしていたテキストを見つけたので、掲載しておく。人々はもう忘れかけている頃だろうが、今夏報道されて話題となったカルト宗教団体「摂理」についてである。

 この団体が報道された時、私はある種の驚きを感じたものだった。なぜ驚いたかというと、「摂理」が信者を拡大していった手法が、前々から私が考えていたことと酷似していたからである。私が考えていたのは、人を信じることと、宗教を信じることとの差異とは何かということである。普通、ある程度弁舌の達者な者なら、人に何かを信じさせることは決して難しくない。が、それが宗教となると話は違ってくる。日本人に特有な気質からか、宗教というものに対するアレルギーが強く、これを信じ込ませるのは至難の業である。しかし、極力宗教的色彩を帯びない形で教理を刷り込み、サブリミナルな領域にまで浸透しきった段階で、宗教の名前を出し勧誘すればどうなるだろうか――。この問いの答えこそ、まさに今回「摂理」がやってのけた手法だったわけである。私はあまり詳しくないのだが、オウムが勢力を拡大したのもこれと同様だったそうだ。思えば、現代の新興カルト宗教はほとんどがこの手法を用いている。それでも、この罠にかかってしまう人(特に高学歴者)が後を絶たないのは、なぜだろうか。

 私が思うに、問題は宗教を信じるか信じないか、ということではない。先に述べたように、宗教名を出されて勧誘される頃には、宗教のドグマ(教理)は知らずの間に自己の内部に入り込み、同化しているのである。ここで勧誘を受け入れない場合、それは宗教を信じないものであるばかりか、自己さえも信じないことになる。つまり、問題は自己を信じるか信じないかという部分に集約されるのである。だから、多くの場合、自己を裏切ることができず、宗教を受け入れてしまう。ここで必要とされるのは、自己に対して懐疑を抱けること。さらに言えば、自己に対して常に疑問を投げかけるような、自己の内面の”他者性”が存在していることである。自己に対してでさえ疑問を抱くことができるような、内面に向き合う強さがなければ、このような宗教の勧誘手口にかかってしまうのである。仮にそれが自己に対する不信からだとしても理屈は同じで、宗教に対する自己の肯定意識に疑念を挟むことができるかが問題となってくる。今回の事件で、いとも簡単に信者が増えていったのは、それだけ現代の若者が自己の内面に向き合う強さを備えていなかったからであると言えるだろう。

 今回の事件では、勧誘のターゲットとされたのが専ら高学歴の有名大学であった。彼らが高学歴であったにもかかわらず容易く勧誘されてしまったのは、知能と内面の強さとが必ずしも比例しないことを示している。おそらく内面の強さは、自己とは何者であるかを問う実存的な思索、体験を通じて得られるものである。この問いは単純で愚直になればなるほど本質に近づくものであるから、頭の良さとは決して関係ない。むしろ広い人生経験の延長上に位置づけられるものかもしれない。とかく大切なのは、実存とは何かを見つけ出すことではなく、自己とは何かを問いかける実存的な経験である。この方法論を知っているか否かが、勧誘を拒否できるかどうかの鍵となる。

 なぜ現代の若者はこれほどまでにカルト宗教の勧誘に乗せられてしまうのか。この問題を社会的背景から捉えるならば、近年モラトリアムの期間が増えたことの他に、個人主義の浸透が原因として挙げられるだろう。現代に入って核家族化が進展し、村落共同体的なものが瓦解した。その後、共同体意識の崩壊と並行して西欧個人主義が浸透し、種々の社会システムが合理的に見直される反面、実力主義の風潮が高まった。つまり、日本社会におけるタテとヨコの繋がりが徐々に失われていったのである。そうした社会状況下では、個人は社会的な繋がりの中で自己を確立させることが難しくなった。このことによって、個人は自己を相対的に見つめ直すプロセスを経ることなく、自己の絶対化によってアイデンティティを確立させるようになったのである。自己を相対化して見ることのできる社会ならば、実存的な経験を得る機会も多いだろうし、タテやヨコの繋がりの中からカルト宗教への違和感を感じ取るきっかけを掴めるかもしれない。だが、自己の絶対化による自己確立を余儀なくされる社会では、個人は自己を拠り所にするほかないので、カルト宗教の誘惑に対してあまりにも脆弱である。

 ここまでカルト宗教に対する現代的な自己の危うさを書き綴ってみたが、私が実際にこうした勧誘を受けた場合、大丈夫だと言い切れる確信はない。ただ、「私は本当に正しいのか」という自問を忘れないように、日々精進していこうと思うものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月24日 (木)

「普通の国」になるということ

 昨日の夕方のニュースで独立総合研究所首席研究員の青山繁晴氏が北朝鮮の地下核実験が近々行われるという報道に関してコメントしていた。青山氏は現在の状況を全く楽観すべからざるとした上で、この事件を受けて日本が悪く変化してしまわないように訴える。特に、北朝鮮の核武装に対して日本も核武装しようという意見が出てきていることについて、深い嘆きと核武装反対の意を表していた。青山氏は現職の国会議員に対するアンケート調査で全体の6割が核武装を視野に入れている(賛成というわけではない)ということを挙げた上で、東大で講義した際の話として、成績優秀な学生が核武装論に対して何ら疑問を抱かなかったこと、そして彼らに対し、日本の平和主義は単なる政策ではなく”哲学”である、と語ったことを紹介していた。

 核武装に関する私の基本的スタンスは過去のエントリで書いた通りなのであるが、やはり日本が核武装や再軍備をして「普通の国」になることにはデメリットが多いな、と改めて思う。まず日本が核武装をすれば、日本が先頭に立って推し進めてきた世界の非核化を目指す種々の会議が台無しとなり、日本は世界各国から強い非難を受けることとなる。のみならず、核保有への非難の力が弱まったことを受けて、その後の核保有国が増えていくことになるだろう。再軍備をするにしても、世界各国はそれを日本がどこかへ侵略を開始するメッセージとして受け取るかもしれない(これは東アジアに限定したことではない)。どのみち、日本は世界の強い非難を受けることになる。一方で、そうすることのメリットは、明晰な東大生の頭では何か考えつくのか知らないが、単独で国家に侵略行為を行えるようになる、ということくらいしか考えられない。そして、日本の立場はと言うと、60年間続けてきた平和主義、非核原則をかなぐり捨てた「普通の国」になるが、そこで平和主義に変えていかなる主義原則を持ち出そうというのか。青山氏の発言の核心はおそらくここにある。核武装や再軍備という行為は、単独の政策のように、後でやり直しのきくようなものではなく、現在の日本外交の基盤そのものを変化させてしまうような抜本的なものなのである。こうした抜本的な変化の後では、再び日本が平和を唱えることがあろうとも、世界には武力侵略を行いながら平和的行為と宣っている現在の米国と同等に映るであろうことを、自覚しておかなくてはならない。

 私が改めてこのような「平和・非核論」を書いたのは、青山氏が発言の中で核武装を容認するような意見が増えていると触れたことに衝撃を受けたからである。こうした意見の増加の背景とは何か。すぐに世論の右傾化という言葉が思い当たるが、さすがにそれは違うだろう。私が思うに、リアリズム的な視点が広く定着し、強まってきたからではないだろうか。つまり、感情論に囚われない冷静なものの見方が、逆に価値というものを見えなくさせてしまったのでは、と私は推察する。というのは、核武装を容認する方向の政治家や、その東大生もおそらくは、実際の核や武力の行使を意図してではなく、それらの保有自体を一つの外交カードとして、或いは世界各国と日本とを相対的なものとして見た結果であっただろうからである。

 そもそも、リアリズム即ち現実主義という言葉には、感情や理念と決別した単なる現実の後追いというネガティブなイメージがあった。私の想像通りだとすれば、前述の核武装容認論者たちはまさにこういうイメージに合致してしまう。では、現実主義をこうしたネガティブなイメージを排したものにするにはどうすればよいのだろうか。日本における戦後現実主義論壇の立役者である故・高坂正堯先生の言葉はとても示唆に富んでいる。

国際政治に直面する人びとは、しばしばこの最小限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある。それゆえ、国際政治に直面する人びとは懐疑的にならざるをえない。しかし、彼は絶望に、道徳的要請をかえりみないようになってはならないのである。
高坂正堯著「国際政治―恐怖と希望」p202

 いかにも、感情論に走って現実を省みないようになったり、ひたすら冷めた目で現実を見たりするだけに終始するのは簡単である。しかし、そのどちらにも偏らず、希望をもってその中間を歩んでいくことこそが、生きた現実主義の真のあり方ではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年7月 | トップページ | 2006年12月 »