« 「進化論」の是非 | トップページ | 夢と現実の乖離 »

2006年5月14日 (日)

言論のダイナミズム

 久々のエントリになってしまった。連休で崩した生活リズムを取り戻すのに多少なりとも時間がかかってしまったようである。五月病になってしまう人が多いのは、新しい環境への適応ができないという理由の他に、大型連休明けの特有のだるさみたいなものもあるかもしれない。とかく、私が更新を怠っている間にもアクセスしてくれていた人々には、ただ感謝の一言である。

 ところで、今日書こうと思う話題は、言論界におけるダイナミズム(動態)について触れたものなのだが、私は言論界を知り尽くした者ではないので、話の前提がおかしいかも知れない。また、この話題を書こうと思った私の動機は二つ。一つは、言論界における右派or左派論壇の人々が極論を述べる意図を邪推してみたかったこと。もう一つは、文章でよく見かける「ダイナミズム」という曖昧な語句の意味を自分なりにはっきりさせてみたかったことである。読者の皆さんには以上の点に留意した上で、以下を読んでいただきたい。

 オピニオン雑誌、新聞、ブログ。最近の私は、知的好奇心がどんどん増していくようで、様々なメディアに目を通すようになっている。そんな中、様々な言説に対してどうしても意識してしまうことは、それが「右」か「左」かということだ。ネットの言説に触れることが多い人にとっては最早常識となってしまったことだが、朝日新聞は象徴的な左派メディアである。人によっては朝日だというだけで軽蔑するようだ。私も朝日と聞けば、無意識のうちに身構えてしまうものだが、最近はそうした先入観を排して言説に接することにしている。なぜなら、言説が右派であろうと左派であろうと、極端な主張は現実に照らし合わせてみると、明らかに意味のないものであることが分かるからだ。というわけで、私はどのような言説に対しても「論が事実に立脚しているか」という点に留意して読むのだが、そのようにして読む習慣がついてくると、今度は極端な感情論ばかりを言い立てる主張がとりわけ不快に思えてきた。しかも困ったことに、現実を無視した突飛な言説は巷間に驚くほど満ちているのである。そうした突飛な主張が世の中に蔓延しているのはなぜだろうか。いくつか理由を邪推してみた。

 一つに考えられるのは、故意に極端な話を選んでいることである。常識的な話をしても面白くないから、極端な話で大衆の興味を惹こうという算段だ。むしろ、世の中では誰にも分かりきった正論を振りかざす人のほうが嫌がられるそうである。だが、評論家やコラムニストも一つの職業である以上は、大衆迎合のためにそうしたことを書かなければいけないのかもしれないが、世の中に関する話題で面白半分に書かれてはたまったものではない。おそらくこの理由は相応に真実であると思うのだが、私が気になるのはもう一つ考えられる可能性である。

 もう一つ考えられる理由、それは極端な主張によって世論を誘導しようという狙いがあるのではないかということだ。ある一人の言論人が、自らの意図する方向に世論を誘導したい場合、妥当な正論を唱えるよりも、妥当性を省いて主張の原理的な部分だけを取り出したほうが、世の中に対して訴えるエネルギーは大きくなる。妥当性を説明する但し書きが無くなって、主張が簡明になる点においても、世の中に訴えやすくなるのである(ワンフレーズポリティクスはこの典型と言える)。天秤に釣るおもりの位置が中心から遠ければ遠いほど、天秤は傾く。一人の主張だけで、世の中に与える最大効果を企図するならば、敢えて主張を強硬に論じ立てるのが得策なのだ。これこそが、言論に関する世の中の動態(ダイナミズム)から見た主張の作用を、最も効果的に活かす方法であると言える。

 しかし、これだけでは主張が世の中に及ぼす効果を厳密に吟味したとは言い難い。なぜなら、言説が世に対して効果を及ぼすということは、それだけ多くの人々が支持してくれるということであるからだ。極端な主張であるということは、世の中の一般的な考えから乖離していることを指す。一般性から乖離した言説が、果たして世に支持されうるのだろうか。普通に考えるならば、一般性から乖離すればするほど、広汎な支持は得にくい。いくら天秤に釣るおもりが中心から離れていようと、釣るおもりの重さ(世間の支持)が少なければ、天秤を大きく傾かせることは不可能なのである。

 だが、ここで一点目の理由を加味してみるとどうだろうか。極端な言説ほど景気のよいもので、社会の閉塞感を打破する期待を持って受け入れられることもしばしばである。だから、主張が世間の一般性から乖離していたとしても、世に受け入れられる可能性は低いとは限らないのである。一般世間が言説を理知的に判断するか、景気のよい言説を好むかは、このエントリでは詳しく論じることをしないが、私が世の中に対して感じている限りでは、最近の世間は後者の潮流であると思われる(世論の右傾化、売れる図書の傾向などから)。現在の社会の潮流が、極端な主張を浸透させやすくしているのだ。こうした理由から、言論に関して極端な説を唱えることは、十分に効果的であると言えよう。私としては、理知的でない意図のバイアスがかかった言説は受け入れがたいが、どうも世の中は私と異なっているようである。

|

« 「進化論」の是非 | トップページ | 夢と現実の乖離 »

コメント

こんにちは。
 言葉を使うにも、それは「誰の言葉」かということで性格が変わってきます。。
 政治家ならば、「言葉の単純化」は、当然の技術です。その点では、小泉総理は生粋の政治家です。世の支持を集め、必要な政策を断行しようと思えば、そうした技術は必要です。そして、政治家は、そうして断行した政策の結果に責任を負うものなのです。
 ただし、そうした「言葉の単純化」は、知識人のやることではありません。無論、知識人にも「世を動かしたい」という願望はあるかもしれませんけれども、彼らには、政治家と同様の「結果責任」はありません。責任を負わない人々が「激しい単純な言葉」を吐いていて、どうするのでしょうか。
 「言葉」と「責任」という関連で物事を考えれば、色々なことが浮かび上がるとおもいます。知識人は、「言葉」に責任を取ろうと思ったら、「激しく単純な言葉」を使えないはずです。

投稿: 雪斎 | 2006年5月25日 (木) 02時09分

 コメントありがとうございます。
 文中ではものの喩えで「ワンフレーズポリティクス」を挙げましたが、あくまでも対象は言論人としています。

 雪斎先生の仰るとおり、責任を負う必要のない言論人は軽率な言動を吐くべきではありません。が、啓蒙の志が高いあまりに軽率な言動に走ってしまう言論人がいるかもしれません。
 言論に携わる人々の立場というものは実に不安定なもので、言論が飯の種であることや娯楽性を追求するメディアの存在など、様々な誘惑があろうかと思います。
 その中で、言論人としてのあるべき役割・責任を果たすならば、やはり抑制的に語ることしか道はないのでしょうね。

投稿: 熊助 | 2006年5月27日 (土) 21時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/56846/1795757

この記事へのトラックバック一覧です: 言論のダイナミズム:

« 「進化論」の是非 | トップページ | 夢と現実の乖離 »