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2006年5月21日 (日)

夢と現実の乖離

 数日前、「下流社会」を読了した。昨年に話題となった本だが、最近のベストセラーの傾向と違い、無闇に煽り立てるような論調でないのが良かった。文章全体は基本的にアンケートの調査結果の分析になっていて、結果から様々な仮説を立てて、「やはり下流化しているのではないか」という結論に導いていく形式である。しっかりとした内容ではあるが、ページ数に占める図表の量が多く、実質の文章量は少ないので非常に読みやすい。このエントリでは内容に深く触れることはしないので、興味を持たれた方は買って読んで欲しい。まぁ私としては、社会学者の宮台真司の結婚を批判し、その弟子の鈴木謙介を「青臭い」と一蹴している辺りに筆者の好き嫌いが読み取れて愉快であったのだが。

 この本によって印象づけられる「下流化」の概念は、既に一般的にも格差社会の文脈で当然のように論じられていることだが、論理だけで片付けられない不条理性を持つ現在の格差問題を改めて直視させてくれたものと言えよう。調査結果に基づく厳然とした事実の羅列は、理由に先んじて結果の認識を強いるものだからである。例えば、私はこの本を読み終わった後、次の報道に強い疑問を抱いた。毎日新聞5月17日付の記事である。

 日銀などでつくる金融広報中央委員会が17日発表した「子どものくらしとお金に関する調査」で、「お金よりも大事なものがあるか」との問いに小中高校生の約8割が「そう思う」と答えた。「勝ち組」「ヒルズ族」などと、成功者がもてはやされる風潮が広まるが、同委は「子供の金銭意識は予想以上に堅実だ」と分析している。
 この内容にあれっと思ってしまったのは私だけだろうか。この問いにイエスであることは、金銭意識が堅実であることを必ずしも意味するものではなく、読み方によっては「最近の子供はお金に対して興味がない」という邪推もできる(比較形の問いなので一概にそうとは言えないが)。「夢さえあればお金はいらない」という夢追いフリーター型の社会人になってしまう可能性も否定できないのである。そうした辺りを無条件に楽観視している日銀に少し呆れた気持ちになってしまう。そして、ニュースは以下のように続く。
 ライブドア事件を挟んだ昨年12月~今年3月、全国の小中高校506校、8万7447人を調査した。「お金持ちはかっこいい」との問いに「そう思う」と答えた割合は小学校低学年と高校生が2割強と、回答者の中で最も高かった。しかし、小学校高学年は同じ質問に約7割が「そう思わない」と答え、最も否定的だった。その一方で、中高生の6割以上は「お金をもうけられることはすばらしい」と答えた。
 また、1カ月の小遣いの額は、小学校高学年で平均1122円、中学生2738円、高校生5590円だった。
 おい、まてまて、私の小遣いよりも平均のほうが高いじゃないか、というツッコミはこの際関係ない。注目して欲しいのは、二つの調査結果の繋がりである。大半は金持ちがかっこいいと思わないのに、金儲けを素晴らしいことだと思っている。一見矛盾している二つの結果は「自分が金儲けできたらこの上ないが、(それができないから)金持ちは素晴らしいように見えない」という仮説を立ててみると、途端に納得いくものになってしまう。無論、二つの調査結果は調査環境が異なるものであり、安易な論理的一貫性を求めることは危険である。だが、この理由を現代の子供たちに根付く「ひがみ」として読み取るならば、それで説明できてしまうのである。先日読了した「下流社会」で述べられていた内容も、「ひがみ=下流化」として位置づけていたような気がする。とすれば、金持ちがかっこいいと答えた二割強は上流になる可能性を含んだ層なのであろうか。

 私が最近テレビ番組を見ていて嫌に思うことは、IT社長だのセレブだのといった成金を取り上げる番組が異様に多いことである。私は他人がどうだろうと構わない質なので、この手の野次馬根性には忌避感を覚えるものだが、世間の人々はこうした番組を見て何を思うのだろうか。それは、私にはなれないという諦めの感情だろうか。一昔前の人々ならば、こうした金持ちを見ても、そこまでに至る努力の過程を自分に投影して考えることができたのだろう。だが、現在の人々は金持ちになるまでの努力の過程を自分に投影して考えることができない。人々が変に賢くなってしまって、結果に隔たりがあることは、意欲に隔たりがあることと同値であると考えてしまっている。どの哲学者であったか、「”しない”ことは”できない”ことである」と言っていたことを思い出すものだが。ともかく、これが社会格差を決定的なものとしている希望格差(インセンティブディバイド)である。こうして、人々はテレビの中のセレブたちが結果・意欲の両面で自らと異なることを意識するのだ。ところが、ここに至ってテレビに「趣味を職業にしてみたら大儲けしました」なんていう人が出てくる。実際に趣味が儲け話になることは、それこそ宝くじを当てるようなものなのだが、人々はここに夢追いを正当化する理屈を見いだしてしまう。”趣味をメシのタネに”という幻想のようなスローガンを掲げて夢追い型のフリーターが急増しているのは、このようなメディアの流す情報が一因になってしまっているのではないか。私はテレビを見ながら漠然とそんなことを考えていた。

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2006年5月14日 (日)

言論のダイナミズム

 久々のエントリになってしまった。連休で崩した生活リズムを取り戻すのに多少なりとも時間がかかってしまったようである。五月病になってしまう人が多いのは、新しい環境への適応ができないという理由の他に、大型連休明けの特有のだるさみたいなものもあるかもしれない。とかく、私が更新を怠っている間にもアクセスしてくれていた人々には、ただ感謝の一言である。

 ところで、今日書こうと思う話題は、言論界におけるダイナミズム(動態)について触れたものなのだが、私は言論界を知り尽くした者ではないので、話の前提がおかしいかも知れない。また、この話題を書こうと思った私の動機は二つ。一つは、言論界における右派or左派論壇の人々が極論を述べる意図を邪推してみたかったこと。もう一つは、文章でよく見かける「ダイナミズム」という曖昧な語句の意味を自分なりにはっきりさせてみたかったことである。読者の皆さんには以上の点に留意した上で、以下を読んでいただきたい。

 オピニオン雑誌、新聞、ブログ。最近の私は、知的好奇心がどんどん増していくようで、様々なメディアに目を通すようになっている。そんな中、様々な言説に対してどうしても意識してしまうことは、それが「右」か「左」かということだ。ネットの言説に触れることが多い人にとっては最早常識となってしまったことだが、朝日新聞は象徴的な左派メディアである。人によっては朝日だというだけで軽蔑するようだ。私も朝日と聞けば、無意識のうちに身構えてしまうものだが、最近はそうした先入観を排して言説に接することにしている。なぜなら、言説が右派であろうと左派であろうと、極端な主張は現実に照らし合わせてみると、明らかに意味のないものであることが分かるからだ。というわけで、私はどのような言説に対しても「論が事実に立脚しているか」という点に留意して読むのだが、そのようにして読む習慣がついてくると、今度は極端な感情論ばかりを言い立てる主張がとりわけ不快に思えてきた。しかも困ったことに、現実を無視した突飛な言説は巷間に驚くほど満ちているのである。そうした突飛な主張が世の中に蔓延しているのはなぜだろうか。いくつか理由を邪推してみた。

 一つに考えられるのは、故意に極端な話を選んでいることである。常識的な話をしても面白くないから、極端な話で大衆の興味を惹こうという算段だ。むしろ、世の中では誰にも分かりきった正論を振りかざす人のほうが嫌がられるそうである。だが、評論家やコラムニストも一つの職業である以上は、大衆迎合のためにそうしたことを書かなければいけないのかもしれないが、世の中に関する話題で面白半分に書かれてはたまったものではない。おそらくこの理由は相応に真実であると思うのだが、私が気になるのはもう一つ考えられる可能性である。

 もう一つ考えられる理由、それは極端な主張によって世論を誘導しようという狙いがあるのではないかということだ。ある一人の言論人が、自らの意図する方向に世論を誘導したい場合、妥当な正論を唱えるよりも、妥当性を省いて主張の原理的な部分だけを取り出したほうが、世の中に対して訴えるエネルギーは大きくなる。妥当性を説明する但し書きが無くなって、主張が簡明になる点においても、世の中に訴えやすくなるのである(ワンフレーズポリティクスはこの典型と言える)。天秤に釣るおもりの位置が中心から遠ければ遠いほど、天秤は傾く。一人の主張だけで、世の中に与える最大効果を企図するならば、敢えて主張を強硬に論じ立てるのが得策なのだ。これこそが、言論に関する世の中の動態(ダイナミズム)から見た主張の作用を、最も効果的に活かす方法であると言える。

 しかし、これだけでは主張が世の中に及ぼす効果を厳密に吟味したとは言い難い。なぜなら、言説が世に対して効果を及ぼすということは、それだけ多くの人々が支持してくれるということであるからだ。極端な主張であるということは、世の中の一般的な考えから乖離していることを指す。一般性から乖離した言説が、果たして世に支持されうるのだろうか。普通に考えるならば、一般性から乖離すればするほど、広汎な支持は得にくい。いくら天秤に釣るおもりが中心から離れていようと、釣るおもりの重さ(世間の支持)が少なければ、天秤を大きく傾かせることは不可能なのである。

 だが、ここで一点目の理由を加味してみるとどうだろうか。極端な言説ほど景気のよいもので、社会の閉塞感を打破する期待を持って受け入れられることもしばしばである。だから、主張が世間の一般性から乖離していたとしても、世に受け入れられる可能性は低いとは限らないのである。一般世間が言説を理知的に判断するか、景気のよい言説を好むかは、このエントリでは詳しく論じることをしないが、私が世の中に対して感じている限りでは、最近の世間は後者の潮流であると思われる(世論の右傾化、売れる図書の傾向などから)。現在の社会の潮流が、極端な主張を浸透させやすくしているのだ。こうした理由から、言論に関して極端な説を唱えることは、十分に効果的であると言えよう。私としては、理知的でない意図のバイアスがかかった言説は受け入れがたいが、どうも世の中は私と異なっているようである。

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