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2006年4月 8日 (土)

資本主義と拝金主義

 最近は季節の変わり目と言うことで、テレビをつけると特番がやっていたり、レギュラー番組が時間拡大で放送されていたりする。昨日の夕食の時間帯、私は最初プロ野球の阪神戦を見ていたのだが、阪神が守備側の時に少し退屈して別のチャンネルを回してみた。すると日本テレビ系で放送されていた番組が私の気を惹いた。司会は爆笑問題の太田光。パネラーたちが議員という役柄になって、仮の法案(テーマ)に対して討論し、賛否を決めていくという構成である。前宣伝が結構頻繁にされていたので、番組自体は知っていたのだが、討論番組ということだったので、見ようとは思っていなかった。競技ディベートをやってきた私にとって、無秩序に意見を言い合う日本の討論は肌に合わないからである。発言者ごとに時間を決めて議論を行う競技ディベートに比べて、日本の討論は声の大きさだけで押し切って議論が行われる場合も多い。そこでは、論の優劣とは別の要素で争われている場合がしばしば見受けられるのである。ちなみに、私がその番組を嫌がったもう一つの理由は、いくつかの討論番組でアナキスト的言動を繰り返す爆笑問題の太田が司会だということだった(笑)。

 討論番組が嫌い、でもついつい見てしまう、というのが私の性分である。昨日もお題が気になって思わず見てしまった。お題は「60歳未満の株式投資を禁止すべし」である。議論の内容を一見した感じでは、拝金主義是か非かという雰囲気であった。私はこういうお題だったら、まず年齢制限の意味を問うことから始めるのにな、と思ってしまったものだが(終わらない資産バブル・後編を参照)、この問題を広義で捉えるならば、拝金主義是か非かの問題は避けては通れないことである。

 「拝金主義」というのは、近年の格差社会や金融の問題を語るときにしばしば聞かれる言葉である。全ての事柄を金で評価する、「金は天下の回りもの」といったような風潮をさげすんで言う言葉だ。だが、私はこの言葉がもっともらしく語られる風潮に若干の懸念を抱かずにはいられない。なぜなら、日本という国家自体が資本主義の論理によって動いているからである。「拝金主義」という言葉の内実は「資本主義」の裏返しに過ぎない。そして、私たちは資本主義を否定する論理を持ち合わせていないのである。拝金主義云々と言ったところで、私たちの国家、生活、全ての事柄において資本主義の論理が働いている限り、私たちはその呪縛から逃れられないことを理解しなければならない。

 私たちは、資本主義に対して肯定とも否定とも付かぬ曖昧な態度をとってきたことで、様々な損害を被ってきたことも知らなければならないだろう。それは最近話題になっている株式投資についてのことである。私自身が株についてどういう関わりを持っているかについては、敢えてノーコメントとさせていただく。だが、株式市場について少しでも知見を持っている者は、日本の株式市場が外国資本の思惑によって簡単に動かされていることに気付いているはずだ。90年のバブル経済、そして最近の好況も、全て裏で糸を引いているのは外国資本であった。彼らが資金を動かすことによって、私たちは一喜一憂し、そして最後にはバブル崩壊が起こり私たちは損をしてきたのである。しかし、それにもかかわらず、日本の風土は自らに損をさせてきた資本主義の敵役に立ち向かおうとはせずに、ただ異議を唱えてきただけだったのだ。私たちは、日々の労働で得た金が外国資本に吸い取られているという屈辱的な現実に立ち向かわなくてはならない。それにはまず、外国資本と対等に戦える一線級の投資家の養成が求められるだろう。確かに日本では昔から金に関わる職業は下賎とされてきたが(注1)、一方でルパンや鼠小僧のような「義賊」が人気を博してきたことも事実である。そこで、日本の投資家を外国資本から国民の財産を守る「義賊」として位置づけることはできないだろうか。若干誇張表現ではあるが、今の日本に金融の舞台で国を守る戦士が求められていることは紛れない事実である。

 ここまで私は金融の重要性を述べてきたのだが、拝金主義という言葉に全く共感しないわけではない。むしろ、私も雑感としては、あらゆるサービスに対して対価を求めようとする風潮に強い反感を覚える。あらゆる事柄が契約関係によって支配されていくようになれば、人間の心と心の豊かな対話は閉ざされていってしまうからである。特に教育などの場面においてはそれを強く感じる場合も多い。だが、私がここで問題だと思うのは、契約社会理念が浸透しすぎているということではなく、むしろ道徳教育が衰退していることである。私たちが「拝金主義」と呼んで蔑視する問題も、道徳教育が一方的に衰退したことによって、資本主義的な現実が明らかになってきたことへの反感に過ぎないのではないだろうか。だとすれば、資本主義の論理の一方的な否定に終始せず、道徳教育を立て直すという前向きな作業こそが求められるべきものであると私は考える。


注1:このことは中世~近代の欧州においても例外ではなく、金融業を営んでいたのは下賎の民と言われていたユダヤ人であった。世界に名だたる大財閥のロスチャイルド家も元をたどれば、フランクフルトのゲットー(ユダヤ人居住区)で金貸しをしていた一族に過ぎない。彼らがその後の躍進を遂げたのは、プロテスタンティズムの合理精神が世間に浸透したからだという見方が多い。


追伸
 今回のエントリは前回から実に一週間ぶりになる。理由は話のネタ切れである。過去ログ一覧を見てもらっても分かるように、このブログは更新のタイミングがとてもまばらだ。こんなペースの更新を続けていては、読者がいつまでたっても寄りつかないだろうと思うので、ここで更新ペースを定めたいと思う。とはいえ、私は今年受験生であるので、基本的に忙しい。だから、自分でも無理の無いように、週に最低一回更新をこれからのペースとして定める。読者諸氏は、週のいつに更新がされるのかなぁという気持ちで毎日閲覧していただければ幸いである。

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