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2006年3月15日 (水)

格差社会に対する論考

 格差社会問題に関するエントリを二日に渡って書いてきたが、そろそろこの問題にもケリをつけていきたい。今日のエントリで私の格差社会に関する一応の一貫した見解は提示してみるつもりだが、それを完全な見解だと言うつもりはない。ただ私としてはこれで首尾一貫していると思うし、結構満足である。だが、それでもまだ足りないと思われる方には是非ご指摘いただきたい。

新保守主義の台頭
 前回のエントリでは、小泉改革に格差社会の責任を問う声が高まっていると書いたが、なぜ小泉改革が批判されるのか、その部分をもう少し丁寧に整理してみる必要があるだろう。言うまでもなく、小泉首相が改革してきたのは徹底した規制緩和と官営企業の民営化である。これは自由競争の原理を導入することによって競争を活発化させる意図に基づく。それまでの政府が富の分配を統御して、福祉を充実させてきた政策方針とは全く逆の方向を行くというわけだ。小泉首相自身も、福祉重視の「大きな国家」から市場重視の「小さな国家」に移っていくことを肯定している。そして、このような改革が以前に行われた事例を探してみると、70年代後半~80年代前半にかけてのイギリスで行われたサッチャー首相による新保守主義政策が酷似していることに気付く。
 サッチャー首相が行った新保守主義政策とは、福祉政策が充実しすぎてしまったことにより、パターナリズム(父親的温情主義)化してしまっていた状況を打破しようとした一連の政策を指す。当時のイギリスは、福祉政策で国民の生活を保護しすぎたために、財政赤字の拡大が深刻化する一方で労働組合が強大化し、日常茶飯事となったストライキが経済活動を麻痺させていた。その深刻な状況を指して「英国病」と呼ばれたほどである。福祉政策によって必要最低限の生活が保障されるようになった国家は、ある面において社会主義国家と何ら変わらない。社会主義国家が、その意図とは逆に生産意欲の減退によって滅んでいったように、福祉政策をあまりに充実させすぎた弊害は人々の労働意欲の減退に現れるのである。そしてサッチャーは、そうした状況を新保守主義政策によって見事に立て直した。
 この80年代イギリスの新保守主義と、現在の小泉改革とを比べてみよう。先進国中で最も福祉政策の充実度が高いと言われる日本は、当時のイギリスの状況と変わらないと言えるだろう。日本では国民皆年金が導入されている上に、公的扶助の保護は手厚く、働かなくても国の補助だけで生活していけるような福祉基盤が整っている。次に、福祉基盤の上にたつ人々の意識はどうか。イギリスでは「英国病」と呼ばれる労働ストライキの頻発があったのに対し、日本ではニートやフリーターの増加など、積極的な労働意欲を発揮していない人々の姿が共通している。労働ストライキとニートとは、違う問題のようにも思えるが、それは日本の経済社会に特有な構造が影響している。そのことについては後で詳しく述べたいと思う。そして最後に、国が社会に対して行う政策。小泉改革はまさに規制緩和と民営化が主軸で、サッチャー時代の新保守主義政策と何ら変わりはない。以上より、現在の日本は新保守主義が台頭した当時のイギリスとほぼ同質の社会状況であると言えよう。

格差形成の過程
 「格差」とばかり言い続けてきたが、この言葉は様々な言い換え表現が可能だ。これから話していく格差の問題を分かりやすくするために格差を「階層化」という表現に置き換えて考えてみたい。まず、日本における戦後最初の階層化は、日本的経営の要である年功序列型賃金制によって起こったと言っていいだろう。仕事の内容に拘わらず、勤続年数で一律に賃金をつり上げていくという制度は、年齢で賃金が異なるという階層化をもたらしたのである。その年功序列社会の中で、年配の人々は社会の「上層」に固定され、動かなくなった。この話は前回のエントリで触れたのと同様で、能力があるのに上層に上れない若い人々が不満をもち、年功序列体制の世の中に突破口を見いだそうとしたのである。若くして実力で経営者になるという、今もブームになっている風潮がまさにそうで、その中で生まれた「ホリエモン」などはその典型であったと言って良い。本来彼らは社会の階層固定化の状況を打破する「ヒーロー」として世に迎えられるはずであったのだが、彼らに対しても別の批判が加えられるようになる。それは彼らの多くが難関国公立大学出身者であることから指摘され始めた「学歴格差」という問題である。
 年功序列社会における「下層=若者」から現れたヒーローであるはずのホリエモンが、逆に別の格差上の「勝ち組」として批判が加えられるようになった。世間から期待されるはずであった人物がすぐさま次の槍玉に挙げられるという状況を私は非常にいぶかしく思う。このことを肯定してしまえば、「格差問題」の原因は「負け組」の勝者に対するルサンチマンに過ぎないという夢も希望もない結論になってしまうからである。社会のシステムに何ら問題はなかったのか、そのことをもう一度検証し直す必要があると思う。

「下層」とは一体何か
 問題を検証し直すにあたってまず考えたいのが、「下層」とは一体何なのか、という問題である。このことを明らかにするのは「下層」と対極に位置する「上層」の研究も欠かせない。簡単にまとめよう。「上層」とは年功序列制によって画一的に上がってきた年配者層を意味する。そして、これら上層の中に穿孔を穿ったのが「ホリエモン」を中心とする若手経営者たちである。彼らは「実力主義」の論理を元に上層にのし上がった。それを基に考えると、現在の「下層」に位置づけられる者たちは、単に「年功」と「実力」という二つの物差しに引っかからなかっただけの層ということになる。世間では「切り捨てられた層」と評されるが、彼らにしてみればそんなことはない、ただの「残っている層」であるのだ。そういう意味では、「負け組」に代わって囁かれだした「待ち組」という表現は単なる言い換えではなく、この問題の本質を言い得ている。
 しかし、普通なら「取り残された者=下層」という図式は簡単には成立し得ないはずである。なぜなら、彼らはただ上層にいないだけなのであって、それがいきなり上層と対極に位置する下層になってしまうことなど無いからだ。彼らを社会問題になるほどの「下層」という存在にしてしまったのには、きっと外的な要因が存在するはずである。単なる”上流ならざる者”であるはずの彼らを「下層」にしてしまった原因、それは日本の行き過ぎた福祉政策である。福祉政策があまりにも充実した社会の下で、彼らにとっては上を目指すよりも、下に留まっていた方が楽だったのである。それが彼らに依存することを覚えさせた。また雇用主である企業が安い働き手を求めた結果、フリーターが増加し彼らに勤労意欲を失わせたのだ。それが巨大化する「下層」の現実であると、私は考える。

「下層」を奮起させよ
 先程分析したように、上層に乗り遅れた者たちが揃って下層化してしまうのは、彼らが何も考えずに生きているからではなく、むしろ合理的にコストとベネフィットを判断しているからだと言える。上層から取り残された彼らが上層を目指す場合、確かに上層になることには巨大なベネフィットが存在するが、上層には先に上ってしまった者が多くて、そこに入り込んでいくためにはより多大な努力(コスト)が要求される。それに対していっそ上層のベネフィットへの執着をあきらめて下層に下り、そこに留まってしまった方が、国の補助というある程度のベネフィットが保障される上に、伴う努力(コスト)が必要とされないので、彼らにとっては楽な状態を簡単に実現できるのだ。
 これは国が福祉政策を進め、ナショナル・ミニマムを充実させてきた結果であり、この点において冒頭で述べたイギリスと日本の社会状況の一致が改めて強く感じられることだろう。そうなれば、日本が採るべき政策方針は明白である。思い切った福祉政策の漸減、それによって「下層」に危機感を与え、彼らを奮起させる必要があるのだ。こういう風に書くと、下層の切り捨てをより一層進めているという批判を受けそうだが、彼らは切迫した状況に追い込まれたとき、意外なほどに奮起し労働意欲を現す。(詳しくは切込隊長氏のエントリ参照)それに、今のニートやフリーターに最も必要なのは「保護」ではなく「自立を支援すること」であり、国の一律的な福祉政策だと得てして「保護」だけになってしまいがちであることを心得なければならない。もちろん彼らの中では本当に切り捨てられてしまう人は出てくるだろう。だが、切り捨てられた人々の支援をできるのは国以外に本当にないのだろうか。その点、欧米諸国では民間のNGOやNPOが発達していて、庶民に近い視点に立った「草の根」支援を行うことができている。しかし日本の社会はそれとは対照的に、民間がそうした社会的責務を背負うことを忌避し、国の責任にしてしまっている。社会の底辺の人々に単なる物資ではなく、「自立する心」を支援できるのは、きめ細やかなサービスを行える民間の草の根運動に他ならない。それなのに、日本が伝統的にもってきた「ムラ社会」の意識は、自治のための共同体ではなく、異質なものを排除する閉鎖的共同体としてのみ機能してきたのではなかったか。自らが下層に陥ってしまうリスクを社会的にプールしていくという福祉の発想の原点は、国家が政策としてシステムだけに現すのではなく、それを同時に支えていく社会全体の意識なくしては活かされない。まず要求されるのは、意識の改革なのである。

 結論として、格差社会の根本的解決のためには果断な政策によって下層の意欲を奮起させる必要があること。そして社会全体でそれをバックアップしていくという意識なくしては、下層からの個々人の本質的自立が成し得ないことを改めて強調するものである。

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コメント

19日までは少し忙しくなりますので、次回のエントリは20日以降となります。
それまでの間も、コメントがありましたらしっかり返事はさせていただきますので、是非ご感想をお寄せ下さい。

投稿: 熊助 | 2006年3月16日 (木) 00時37分

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