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2006年3月31日 (金)

死亡宣告を受けた民主党

 今日は昨日のエントリに続いて中国問題を扱うつもりであることを予告していたが、民主党前原代表が辞任するとのことなので、そちらを優先して書きたい。無論、無闇に時勢を追ったエントリであるので、いつものような論理的な分析はなく、雑感といった感じが否めないと思う。読者の皆さんは「ふーん、そうなんだ」程度の気持ちで読んでいただけると幸いである。中国問題の続編は草稿が仕上がっているので、明日には問題なく掲載できると思う。

 近年の民主党の成長には目を見張るものがあると私は見ていた。民主党が現れる以前の日本の政党政治は、思えば雑なものであったからである。与党になるほどの党勢もない野党がいくつも乱立して、口々に偉そうな文句を言い募る状態。彼ら弱小野党には政権を担う力なんてあるはずもないのに、与党だけが手にできる為政者としての権限を有名無実な公約として言いふらし、選挙戦において不毛な議論を生んできたのである。その中に本当の意味で政権を担うことの出来る力を持った野党はなかっただろう。かの社会党でさえ、経験豊富な自民党と組むことでしか、政治の場における主人としての役割を果たせなかったのである。しかし、その中で民主党が登場したことは膠着した政党政治に活気を与えたことは言うまでもない。

 民主党が果たした大きな役割はいくつかある。一つには、民主党が他の野党と一線を画する「政権交代政党」として売り出したこと。これはイギリスのシャドウキャビネットを真似た”ネクストキャビネット”構想や、施政方針に重みを持たせた”マニフェスト”にも明らかである。民主党は他の野党と違い、自らに政権担当能力があることアピールすることによって、自民党による不動の55年体制を揺るがせた。それまでずっと実質上の”代役”がいなかった与党のポストに成り代われる力を、野党で初めて国民に示したのである。

 二つめの大きな役割は、彼らがリアリズムの視座を持っていたことである。それまでの日本の国政の場における野党とは、与党の意見に何が何でも対立する立場だと思い込まれていた。どの政党もひたすら与党に対するアンチテーゼでなくてはならないという気風があったのである。しかし、そのことは野党に、時に非現実的な姿勢をもとらせることになった。現実には到底行い得ないようなことでも、彼らは与党の方針に少しでも誤りがあれば、それを糾弾し、対立政策をとった。それはひとえに、与党に対する過剰なまでの敵愾心と、国民の期待に応えようとする過剰な自負からである。彼らは、国の政策が少しも誤ったものであってはならないという立場をとるあまり、この世に最良の政策など存在しなく、政策の選択は常にベター(マシ)なものを選ぶに過ぎない、ということを忘却してしまったのである。つまり彼らは、どれだけ理念の素晴らしい政策であっても、現実に行い得るものであるかどうかという問題に対して目を向けようとしなかったのである。有権者はこのことをよく見ていた。いくら美辞麗句で飾っても、実際にそんなことができるのかという疑惑の目を向けていたのである。
 それに対して、民主党には今までとは一味違う”若手”が揃っていた。彼らは「理想」に対する理念をもった政治家ではなく、「現実」に対する理念をもった政治家だったのである。このことは、民主党が自民党の政策に対して賛意を示しすぎていると批判があったことを、逆説的に読み取れば分かるだろう。民主党は、自民党に反対か否かではなく、その政策が妥当か否かという点について真摯な姿勢をとったのである。

 これらの民主党の役割は、自民党に対して党勢を拡大する中で培われ、前原体制の確立によってピークを迎えたと言っていいだろう。特に前原体制に変わってからは、外交においてもリアリズムの視座が養われたと言える。前原代表が訪米したとき、彼は憶することなく中国を脅威と言ってのけた。この事実に対しても、各所で様々な議論が展開された。しかし彼は、自身の発言に政治的影響力があることまでは思い至らなかったようであるが、中国の成長する総合的な力が、その運用意図が不明瞭であるという点において「脅威」だと語ったことについて、現実に対して誠実な観点を持っていると言えるだろう。

 私はこの前原氏を代表になる以前から評価していた。なぜなら彼は、私の尊敬する高坂正堯先生のゼミ生であり、雑誌などの場での彼の発言はその期待を裏切らないものだったからである。前原氏が代表になったとき、私は非常に驚いたものである。しかし今日、彼は何ともやるせない理由で辞意を表明することになった。その原因となったところの永田議員は一体どのように考えているのだろうか。

 私はずっと、一連のメール疑惑問題については特に興味がなかった。ただ一つ、この問題について想いを語るのであれば、それはただ”不毛”の一語に尽きる。全く無意味なのだ、そんな問題について語ることは。しかし、それなのに、永田議員は無用な犠牲を増やした。一人は情報提供者の西澤氏である。彼の提供したような、真偽の怪しい情報は、探せば他にいくらでも転がっているだろう。彼は多くの怪しい情報の一つを提供してしまった「多数の中の一人」に過ぎない。悪いのは、それを取り上げてしまった政治なのだ。それなのに、永田議員は結局彼の名前を公表してしまった。そのことが、特に悪意のなかったはずの彼をスケープゴートにしてしまうことは明白だったはずである。全く節操のない、不毛な犠牲だと思えた。前原代表についても同様である。永田議員は、自分にふりかかった責任が他者を苦しめることに対して無自覚だったのだろうか。それならあまりにもこの問題は不毛ではないか。私はこの一連の問題に対して、不毛だと嘆き、絶望するしかない。

 加えて、前原代表辞任後の民主党には全く展望が見えない。「小泉後」も未知の可能性に溢れている(期待が持てる)自民党に対して、民主党の後釜で浮かぶのは、見飽きた顔ばかりである。もしかしたら、今まで黙してきた小沢氏が強権的な体制に作り変えるという「サプライズ」があるかもしれないが、小沢氏の統率には包容力がなく、より一層の党勢弱体化を招く可能性もある。そういう意味では、前原体制は「小泉後」の体制にも十分張り合える理論と新鮮さを備えた民主党最後の希望だったように感じる。その希望を失った今、私は今後の民主党に対して、期待を一切捨てて、冷ややかに見守ることしかできないのである。

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2006年3月30日 (木)

中国問題の要点

 故・高坂正堯京大教授による「中国問題とはなにか」という論文を読んだ。雑誌「自由」1964年4月号に収録されていた論文で、年代は非常に古いのだが、その内容は40年経った今でも、日本がまだ解決できない中国問題に対する示唆に富んでいる。今日はその論文の内容をひもときつつ、現在の対中政策の要点を整理してみたい。

 まず、中国問題の争点とは何か。それはすなわち、内戦、戦争責任、革命の三点であると高坂先生は言う。そして、その中で高坂先生が論文の多くを割いて論じるのは、革命という要素についてである。なぜなら、この要素だけが、中国との直接の利益折衝とは関係なく、日本国内で紛糾しているイデオロギーの問題だからである。内戦(台湾問題)や戦争責任の問題は、日中外交において現実に折衝の行われる部分であるが、中国が打ち立てた革命政府に対する態度というのは、日本人が勝手に妄想し作り上げた問題であると言うのだ。いかにも現実主義論壇に立つ高坂先生らしい重点の置き方である。

 中国に対して極端な思想を掲げる人を見るとき、彼らは往々にして次のように語る。中国は共産政府であるから、内部崩壊するのが必然であると。或いは、中国は共産主義を掲げているのだから、その理念に沿えば非平和的な政策など行わないと。しかし、彼らは中国は共産主義を掲げる以前に一つの権力国家であるという事実を直視していないのである。確かに、共産主義の理念から導かれる極端な結論は、もしかしたら実現するかも知れない。だが、その究極的な結末に至るまでの過渡期に日本はどうふるまうべきなのか。中国問題を革命の問題だけで処理しようとする人々は、我々が避けて通れない厳然たる現実を直視していないのだ。革命の問題を論ずることは、現実に対して何の意味も持たないのである。

 高坂先生はそこまでを中国問題に対するときの最低限の、しかし必須の、心構えとして説いている。そうしてやっと、現実に向き合うことになる内戦(台湾問題)と戦争責任の問題に入るのだが、先生はこの二つの問題について残念ながら多くを語っていない。内戦(台湾)の問題については、日本が能動的なリーダーシップをとることは難しいと語るだけに留めている。確かに、戦後60年経った今でも「二つの中国」問題は解消していないし、それについて大きな変容を果たせるイニシアティブを握っているのは、その二つの国民のみである。日本が何かアクションをとったところで、それが突飛な軍事的方法などではない限り、問題が一気に解消へ向かう可能性はないのだから、流れに任せるという選択肢しか選びようがないのだろう。

 戦争責任の問題については、非常にデリケートな問題であると断った上で、賠償責任に対する二国の解釈の相違を指摘している。この問題は、解釈の相違が根本原因であるという点において、解決の非常に困難な問題である。だが、現実に日中関係が経済発展に伴って緊密になるとき、この問題の解決無しには前に進めない。このように指摘した上で、先生はジレンマを断つ方法は決断しかない(以降、下線部は高坂)と大胆に提言する。前に進むには決断しかなく、それには多かれ少なかれ犠牲が生じるが、その犠牲をできるだけ減らすために、日本は広い意味における力を充実させ、強力な政策をおこなわなくてはならないのだと。

 以上、先生の中国問題に対する指摘は、論文が書かれて40年経った今でも、十分適応しうるものであると言える。これこそが、現実に対する誠実な姿勢の生み出すところの真実なのであろう。だが、最後の戦争責任の問題だけは、ここ数年の小泉外交によって大きく変容を遂げたように思う。明日は戦争責任の問題の最近の変貌についてエントリを書くことにする。

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2006年3月28日 (火)

品格ない本が売れる背景

 昨日は「国家の品格」について、結構散々な書評を書かせてもらった。私はあのような本が嫌いなのであるが、どういうわけか世間ではあの本を評価する人は結構多い。それはなぜだろうか。今日はその疑問から出発してみたいと思う。

 まず、あの本を評価する人が言うのは、分かりやすかったということである。確かに最近のベストセラーになる本は、分かりやすい。何が分かりやすいかというと、読みやすく工夫されている構成もさることながら、著者の主張が簡明であるという点が大きいと思う。「国家の品格」もそうであったが、少し毒舌なくらいに著者が主張するというスタンス(こういうところが品格に欠けると思うのだが)が受けているようである。ただ、そうした簡明さを重視する場合は、当然のことながら簡明さゆえの弊害も考えなくてはならない。例えば、昨日私が槍玉に挙げた論理性を否定している記述にしても、あの本をよく読み込めば著者が論理の必要性も認めていることが分かる。だから、私が行ったような批判は、あの本を精読した人に言わせれば、間違っているのである。しかし、あの本は簡明さを重視するあまり、論理の否定に力を注ぎすぎていて、論理の必要性についてはほとんど語っていない。それは多くの人に表面的な理解から来る誤解を与えかねないものであり、素人受けする本では尚更のことである。私はそうした点を危惧しているのだ。だから、私が昨日紹介した書評で、

ちなみに僕が藤原正彦だったら、「自由、平等、民主主義は形だけ真似してもダメだ。これらを成り立たせるには情緒や品格が必要である。そのためには日本は武士道精神を復活させるべきだ」というように書いたでしょう。
と書かれているように、”情緒や品格が必要となるのは、合理主義という基盤だけでは不完全だから”という部分を強調すべきだったように感じる。些細な但し書きに過ぎないが、それの有無だけで読者の印象も大きく違ってくるのである。そうした細やかな気配りこそ、プロのオーサーに求められるものではないだろうか。

 また、最近のベストセラーの多くは、主張を簡明に表現するために本の構成が練られている部分も見逃してはいけない。それらに共通しているのは、構成が”主張先行型”であるということである。主張先行型の本の構成は「著者はこういう主張である」という書き出しで始まり、「その主張がどう良いか」という記述が続いていく。しかし、不思議なことに、こうした本の多くには「なぜ著者はその主張が良いと判断するのか」という前提部分が一切欠落しているのである。ここで気をつけて欲しいのは、「主張がどう良いか」と「なぜ主張が良いのか」は全く別の問題であるということだ。前者は主張の「良い部分」にしか着目していないのに対し、後者は主張の「良い部分」と「悪い部分」の双方に着目している。無論、ものごとを考える場合に求められる姿勢は後者である。前者は極めて盲目な姿勢だと言わざるを得ない。

 しかし、それにもかかわらず、現実は前者の姿勢をとる本がよく売れるのである。私はこの現実に対して、一つの強い危惧を抱く。それは、民衆の間に主張を無批判に摂取する風潮が広がっていることである(以前のエントリでもこの可能性を指摘した)。主張が正しいかどうかということを吟味しなければ、最近のベストセラーほど愉快な本はない。著者は自らの主張が正しいことを暗黙の前提にして主張の良さを語るからである。このとき、著者の主張が正しいか否かの判断は全て読者の側に委ねられていることを注意しなくてはならない。さもなくば、読者は読後の爽快感の代償として、自主的な思考を奪われてしまうだろう。悪意に満ちた宣伝に誘導されないためにも、善悪兼ね合わせた判断は必須である。だが、現在のベストセラーの傾向を見ると、社会が誤った方向に足を踏み出しているように思われて仕方がない。これがただの危惧であるならいいのだが。

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2006年3月27日 (月)

「国家の品格」は書の品格に欠ける

 私は以前に「国家の品格」という本を借りて読んだことがある。非常に読みやすく、読むのが遅い私でも一日や二日で読み終わる本だった。だが、読み終わって私が強く思ったのは、世間で素晴らしい本だと言われているほどの価値はない、ということである。

 この本の構成は、前半で近代合理主義的風潮に対する批判をしていて、後半は日本文化を賞揚する内容になっている。私にとって、後半は非常に快い内容であったけれども、前半はやや不快とも言える内容だった。著者の批判のやり方があまりにも粗雑だったというべきだろうか。著者の主張に至る論理のプロセスがあまりにも短絡であるように感じた。冒頭の問題提起で「教育などの問題は論理では割り切れない」としたところは良かったのだが、その後の文章展開では合理主義を批判するあまり、論理的思考そのものをも否定するような論調になっている。その中で私が特に気になったのは、著者が「数学でも論理が完全でないことが証明されている」として、論理の限界を指摘した部分である。ネット上で、この本に肯定的な評価をしている人の多くがこの記述を挙げていたのだが、私はそういう評価を下した人々に対して多大な危惧を抱く。なぜなら、「数学者が論理を否定したのだから」とか「数学でも論理は完全でないのだから」という考え方は一種の権威に対する盲信だからである。その人の主張の論拠を斟酌せずに、「あの偉い人が言ったのだから間違いない」と一方的に考えることが果たして賢明な判断だと言えるだろうか。読者には、著者の肩書きなどで判断せずに、その主張の内実を吟味して判断する姿勢が求められなくてはならない。事実、社会問題が数学のように簡明な論理で構成されていないからといって、数学よりも論理性の劣るものだと考えることは誤りである。社会問題も分析を深めていくと、それが様々な個別的問題を内包しているものであると気付かされるからだ。それは数学よりも複雑な論理の集合体であるとも言えるのである。だから、数学の論理が否定されたとしても、そのことをもって社会問題の論理性を否定するのは短絡的な結び付けだと言わざるを得ない。(一方で、社会問題を構成する要素には論理的でないものが含まれていることも事実である。)

 もう一つ、私がこの本に対して否定的な理由は、まさにその後半部にある。私は確かに後半は快い内容であったと書いた。事実、日本文化にしかない「憐れみの心」や「弱者へのいたわり」を賞賛する記述は私の心を強く打つものだった。しかし、それと同時に私が感じるのは、この記述が果たして書物として優れたものであるか、ということである。残念ながら、このような記述は私にとっては当たり前のことであり、それに同意こそすれ、秀逸であるとは思わないのである。しかも、これと同様の主張はネットで探せば、保守系のブログなどを中心としていくらでも似たようなものが見つかる。つまり、私はこの主張に対して、プロの卓越性を微塵も感じなかったのである。ありふれた主張をするだけならわざわざ本を書く必要など皆無だ。
 私は前半の粗雑な論理構成と、後半の主張の凡庸さ故に、この本は”書として品格がない”と断言したいと思う。

(この本に対する様々な書評の中で、私の意見と近いなと思ったのはこちらの書評です。併せてご覧頂くと良いと思います。)

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2006年3月25日 (土)

野党が責任追及する理由

 私は数日前から春休みである。いろいろなことが一段落ついて落ち着ける時期であるので、この春休みは読書と思索(勿論勉強もしなければいけないわけだが)に打ち込みたいと思う。
 この時期の新聞やテレビを見ていると、非常に国会が不毛な論議に包まれていることに気付く。例の永田議員による一連の偽装メール問題である。この疑惑問題によって国会の重要な議題は進行ストップを余儀なくされ、連日の活気がない国会が続いている。そこで、私はこの「責任」という言葉について興味を引かれたので、今日は少しそれを考えてみたい。ただし、ここで私が問題に挙げる「責任」とは、議員個人の責任ということではなく、政党が責任を問う(問われる)場合のことである。

 一般に考えてみると、責任というのは全員が等しく何らか背負っているものだと考えられるが、政治の場ではいささか違うように感じる。常に責任を追及されるのは、政権を担う与党であり、責任を追及できるのは政権という責任を背負っていない野党である。今回の永田議員の件では珍しく野党が批判の矢面に立たされることになったが、基本的な図式としては先のようなもので問題ないと思う。
 では、なぜ野党は与党に対して責任追及するのか。当たり前とも思えるこうした行為の意図を、いつものようにコストとベネフィットの観点から探ってみたいと思う。

 まず、野党が自らの勢力を拡大するために用いられる方法には何があるか、というところから考えていくと、大別して二つの方法があると思う。即ち、一つには自らの党の政策方針を提示する方法があり、もう一つには与党を批判する方法がある。この二つの手法に関して言うならば、前者は他党は関係なく自らの力を恃んでいる場合であり、建設的な姿勢がうかがえる。対して、後者は批判という行為単体では与党の評判を落とす効果しかないはずである。その批判がどうやって野党自身の利益に結び付いてくるのか。それにはいくつかの理由が考えられる。

 一つ目は、与党の評判を落とすことで、自らの党が最も支持されている位置に躍り出て、政権を獲得する場合である。この場合、与党の評判を落とすことは政権獲得という大きなベネフィットと結び付いていて、非常に重要な行為であることは明白だ。しかし、このことを理由とするためには、批判を行う前の段階で自らの党がある程度の大きな勢力になっていないと意味がない点に注目して欲しい。つまり、現在の日本政治の勢力図で言うならば、このことを理由にできるのは、野党第一党である民主党のみであり、あとの小粒な野党はこのことを理由にしたところで、絵に描いた餅に過ぎないのである。
 そう考えていくと、弱小野党には何か他の理由があるはずだ。それは果たして何だろうか。弱小野党が、先に挙げた二つの手法を行うそれぞれの場合のベネフィットについて考えてみたい。弱小野党が自主的な政策提言などを行った場合は、民衆の注目度はその野党の知名度に比例するのであり、どれだけ優れた政策方針であっても、野党の知名度が低ければ政策方針への民衆の注目度も低い。それに対して、与党へ批判を行う場合は、民衆の注目は与党の方に注がれているのであり、弱小与党が優れた批判をして与党が答えに窮すようなことがあった場合、民衆の注目は弱小野党にも大きく注がれることとなる。この点において、政権の座など関係ない弱小野党であっても、自らの党の宣伝を行い勢力伸長を目指すならば、自ら政策方針を提示するよりも与党に対して批判を行うことのほうが効果的であることが分かる。弱小野党が与党に対する批判をするのは、そうすることで与党に連なって知名度を保つことが目的であり、彼らは与党の知名度に依存しているという情けない背景が浮かび上がるのである。


追記
 本日は与党への批判の理由を探ったわけだが、野党は批判だけをしているというような最後の結論は、極論で間違っていることは言うまでもない。実際の野党は、与党に対する批判的キャンペーンを行いつつ、自らの政策方針を示して国民からの支持を集めるという、二つの手法の相乗効果を利用しているからである。
 ただし、実際の政治の場でも、共産党や社民党などの政策方針はあまり国民に対して印象を与えれらていないことも事実である。共産党らが提示する福祉政策の中には意外と使えるものも多く、数年経ってから自民党が同じような趣旨の政策を掲げていることもしばしば見られる。多分そのときに大半の国民は自民党が初めて提示した政策だと思っているだろう。それだけ、弱小政党の政策というのは注目を受けにくいという性質があるのだ。
 また、現在の野党の勢力図が、政権交代政党とする民主党と他の野党に分かれてきたことも面白い。野党の中にもそれぞれの役割があることを自覚し始めているからである。中でも、共産党が掲げた「確かな野党」という理念は十分な評価に値する。マジョリティに対するアンチテーゼという、社会の中でなくてはならない役割を自らが自覚し、そのように振る舞う意志を明確にしたからである。
 このようにして書くと、私が共産党の支持者のように思われがちであるが、私はあくまでも「マジョリティに対するアンチテーゼ=マイノリティ」としての共産党を評価したのであり、仮に共産党がマジョリティであったなら激しく反対するだろう。つまり、私がどれだけ評価しようと、共産党はせいぜい優秀な助演俳優に過ぎないのであり、私が素晴らしいと思う主演俳優は別にいるということである。その支持する主演俳優の名前は、今度の選挙シーズンのときにでも書くとしよう。

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2006年3月15日 (水)

格差社会に対する論考

 格差社会問題に関するエントリを二日に渡って書いてきたが、そろそろこの問題にもケリをつけていきたい。今日のエントリで私の格差社会に関する一応の一貫した見解は提示してみるつもりだが、それを完全な見解だと言うつもりはない。ただ私としてはこれで首尾一貫していると思うし、結構満足である。だが、それでもまだ足りないと思われる方には是非ご指摘いただきたい。

新保守主義の台頭
 前回のエントリでは、小泉改革に格差社会の責任を問う声が高まっていると書いたが、なぜ小泉改革が批判されるのか、その部分をもう少し丁寧に整理してみる必要があるだろう。言うまでもなく、小泉首相が改革してきたのは徹底した規制緩和と官営企業の民営化である。これは自由競争の原理を導入することによって競争を活発化させる意図に基づく。それまでの政府が富の分配を統御して、福祉を充実させてきた政策方針とは全く逆の方向を行くというわけだ。小泉首相自身も、福祉重視の「大きな国家」から市場重視の「小さな国家」に移っていくことを肯定している。そして、このような改革が以前に行われた事例を探してみると、70年代後半~80年代前半にかけてのイギリスで行われたサッチャー首相による新保守主義政策が酷似していることに気付く。
 サッチャー首相が行った新保守主義政策とは、福祉政策が充実しすぎてしまったことにより、パターナリズム(父親的温情主義)化してしまっていた状況を打破しようとした一連の政策を指す。当時のイギリスは、福祉政策で国民の生活を保護しすぎたために、財政赤字の拡大が深刻化する一方で労働組合が強大化し、日常茶飯事となったストライキが経済活動を麻痺させていた。その深刻な状況を指して「英国病」と呼ばれたほどである。福祉政策によって必要最低限の生活が保障されるようになった国家は、ある面において社会主義国家と何ら変わらない。社会主義国家が、その意図とは逆に生産意欲の減退によって滅んでいったように、福祉政策をあまりに充実させすぎた弊害は人々の労働意欲の減退に現れるのである。そしてサッチャーは、そうした状況を新保守主義政策によって見事に立て直した。
 この80年代イギリスの新保守主義と、現在の小泉改革とを比べてみよう。先進国中で最も福祉政策の充実度が高いと言われる日本は、当時のイギリスの状況と変わらないと言えるだろう。日本では国民皆年金が導入されている上に、公的扶助の保護は手厚く、働かなくても国の補助だけで生活していけるような福祉基盤が整っている。次に、福祉基盤の上にたつ人々の意識はどうか。イギリスでは「英国病」と呼ばれる労働ストライキの頻発があったのに対し、日本ではニートやフリーターの増加など、積極的な労働意欲を発揮していない人々の姿が共通している。労働ストライキとニートとは、違う問題のようにも思えるが、それは日本の経済社会に特有な構造が影響している。そのことについては後で詳しく述べたいと思う。そして最後に、国が社会に対して行う政策。小泉改革はまさに規制緩和と民営化が主軸で、サッチャー時代の新保守主義政策と何ら変わりはない。以上より、現在の日本は新保守主義が台頭した当時のイギリスとほぼ同質の社会状況であると言えよう。

格差形成の過程
 「格差」とばかり言い続けてきたが、この言葉は様々な言い換え表現が可能だ。これから話していく格差の問題を分かりやすくするために格差を「階層化」という表現に置き換えて考えてみたい。まず、日本における戦後最初の階層化は、日本的経営の要である年功序列型賃金制によって起こったと言っていいだろう。仕事の内容に拘わらず、勤続年数で一律に賃金をつり上げていくという制度は、年齢で賃金が異なるという階層化をもたらしたのである。その年功序列社会の中で、年配の人々は社会の「上層」に固定され、動かなくなった。この話は前回のエントリで触れたのと同様で、能力があるのに上層に上れない若い人々が不満をもち、年功序列体制の世の中に突破口を見いだそうとしたのである。若くして実力で経営者になるという、今もブームになっている風潮がまさにそうで、その中で生まれた「ホリエモン」などはその典型であったと言って良い。本来彼らは社会の階層固定化の状況を打破する「ヒーロー」として世に迎えられるはずであったのだが、彼らに対しても別の批判が加えられるようになる。それは彼らの多くが難関国公立大学出身者であることから指摘され始めた「学歴格差」という問題である。
 年功序列社会における「下層=若者」から現れたヒーローであるはずのホリエモンが、逆に別の格差上の「勝ち組」として批判が加えられるようになった。世間から期待されるはずであった人物がすぐさま次の槍玉に挙げられるという状況を私は非常にいぶかしく思う。このことを肯定してしまえば、「格差問題」の原因は「負け組」の勝者に対するルサンチマンに過ぎないという夢も希望もない結論になってしまうからである。社会のシステムに何ら問題はなかったのか、そのことをもう一度検証し直す必要があると思う。

「下層」とは一体何か
 問題を検証し直すにあたってまず考えたいのが、「下層」とは一体何なのか、という問題である。このことを明らかにするのは「下層」と対極に位置する「上層」の研究も欠かせない。簡単にまとめよう。「上層」とは年功序列制によって画一的に上がってきた年配者層を意味する。そして、これら上層の中に穿孔を穿ったのが「ホリエモン」を中心とする若手経営者たちである。彼らは「実力主義」の論理を元に上層にのし上がった。それを基に考えると、現在の「下層」に位置づけられる者たちは、単に「年功」と「実力」という二つの物差しに引っかからなかっただけの層ということになる。世間では「切り捨てられた層」と評されるが、彼らにしてみればそんなことはない、ただの「残っている層」であるのだ。そういう意味では、「負け組」に代わって囁かれだした「待ち組」という表現は単なる言い換えではなく、この問題の本質を言い得ている。
 しかし、普通なら「取り残された者=下層」という図式は簡単には成立し得ないはずである。なぜなら、彼らはただ上層にいないだけなのであって、それがいきなり上層と対極に位置する下層になってしまうことなど無いからだ。彼らを社会問題になるほどの「下層」という存在にしてしまったのには、きっと外的な要因が存在するはずである。単なる”上流ならざる者”であるはずの彼らを「下層」にしてしまった原因、それは日本の行き過ぎた福祉政策である。福祉政策があまりにも充実した社会の下で、彼らにとっては上を目指すよりも、下に留まっていた方が楽だったのである。それが彼らに依存することを覚えさせた。また雇用主である企業が安い働き手を求めた結果、フリーターが増加し彼らに勤労意欲を失わせたのだ。それが巨大化する「下層」の現実であると、私は考える。

「下層」を奮起させよ
 先程分析したように、上層に乗り遅れた者たちが揃って下層化してしまうのは、彼らが何も考えずに生きているからではなく、むしろ合理的にコストとベネフィットを判断しているからだと言える。上層から取り残された彼らが上層を目指す場合、確かに上層になることには巨大なベネフィットが存在するが、上層には先に上ってしまった者が多くて、そこに入り込んでいくためにはより多大な努力(コスト)が要求される。それに対していっそ上層のベネフィットへの執着をあきらめて下層に下り、そこに留まってしまった方が、国の補助というある程度のベネフィットが保障される上に、伴う努力(コスト)が必要とされないので、彼らにとっては楽な状態を簡単に実現できるのだ。
 これは国が福祉政策を進め、ナショナル・ミニマムを充実させてきた結果であり、この点において冒頭で述べたイギリスと日本の社会状況の一致が改めて強く感じられることだろう。そうなれば、日本が採るべき政策方針は明白である。思い切った福祉政策の漸減、それによって「下層」に危機感を与え、彼らを奮起させる必要があるのだ。こういう風に書くと、下層の切り捨てをより一層進めているという批判を受けそうだが、彼らは切迫した状況に追い込まれたとき、意外なほどに奮起し労働意欲を現す。(詳しくは切込隊長氏のエントリ参照)それに、今のニートやフリーターに最も必要なのは「保護」ではなく「自立を支援すること」であり、国の一律的な福祉政策だと得てして「保護」だけになってしまいがちであることを心得なければならない。もちろん彼らの中では本当に切り捨てられてしまう人は出てくるだろう。だが、切り捨てられた人々の支援をできるのは国以外に本当にないのだろうか。その点、欧米諸国では民間のNGOやNPOが発達していて、庶民に近い視点に立った「草の根」支援を行うことができている。しかし日本の社会はそれとは対照的に、民間がそうした社会的責務を背負うことを忌避し、国の責任にしてしまっている。社会の底辺の人々に単なる物資ではなく、「自立する心」を支援できるのは、きめ細やかなサービスを行える民間の草の根運動に他ならない。それなのに、日本が伝統的にもってきた「ムラ社会」の意識は、自治のための共同体ではなく、異質なものを排除する閉鎖的共同体としてのみ機能してきたのではなかったか。自らが下層に陥ってしまうリスクを社会的にプールしていくという福祉の発想の原点は、国家が政策としてシステムだけに現すのではなく、それを同時に支えていく社会全体の意識なくしては活かされない。まず要求されるのは、意識の改革なのである。

 結論として、格差社会の根本的解決のためには果断な政策によって下層の意欲を奮起させる必要があること。そして社会全体でそれをバックアップしていくという意識なくしては、下層からの個々人の本質的自立が成し得ないことを改めて強調するものである。

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2006年3月14日 (火)

格差意識の奇妙なズレ

 最近の政治では「格差社会」という言葉がよく取りざたされる。小泉改革では規制緩和、民間委託による市場競争力の強化を意図してきたが、その競争が激化することによって富裕層と貧困層との格差が拡大するという論理である。こうした格差社会について、小泉改革の責任だとする質問がこのところ国会で取り上げられているが、たかだか始まって3,4年しか経ってない小泉改革でその影響がすぐに現れたというのは嘘だろう。問題は何らかの理由で現れた格差社会をどう解消していくかであり、責任の所在をわざわざ問うところに未熟な政治が現れているような気がする。さて、その格差社会がどういう原因で起こったかを分析するのはもっぱら評論家の仕事であるわけだが、今月発売の月刊誌はこぞって格差社会をテーマに取り上げているという。私が毎月愛読する中央公論もその例に漏れない。
 格差問題に対する評論はそれぞれ読んでいくと、さまざまな分析があるなと思わされる。社会全体の動きを分析したもの、格差中の一部の人々の視点に立っているもの、経済的側面から分析したものなど。この格差問題はさまざまな問題の複合で成り立っているが故に、一筋縄にはその病巣が見えてこないものだということを思い知らされた。こんなことを書いておいて実は、私の中では格差問題に対する一貫した見解がもう既に出来上がっているので、その完全版は明日書くということにしておく。今日は格差問題の一つの側面として挙げられる「希望格差社会」「インセンティブ・ディバイド」に関して疑問を提示してみようと思う。

 ニートや若者の視点に立ってこの問題を考えると、浮かび上がってくるのは揺るぎない「上層」の存在である。自分たちよりも遥かに年上で経験も豊富、そんな人たちが会社の役員級の人材になって高い給料をもらい、周りから尊敬される人物として悠々自適な余生を送る。ちょっと極端過ぎるかもしれないが、若者である私たちが一般的に社会の上流層に対して抱いている観念はそんなものではないだろうか。この何気ない観念から導かれる上流層の姿は、戦後の年功序列型賃金制の中で形成されたイメージだと言える。そして私たちがそんな上流層をイメージしたときに思われるのは、「どれだけ仕事を頑張っても、年をとらなければ上流層にはなれない」という一種のあきらめにも似た思いである。戦後の年功序列型賃金制の結果、年齢による階層が超えられない壁となってしまい、私たちは必要以上に頑張ることの無意味さを感じ、労働意欲が低下した。この状況が若者である私たちの労働に対する無気力の原因になっていることは十分に言えるだろう。
 しかし、そうした閉塞的な状況も一変する。それは西欧合理主義に範をとった「実力主義」の風潮である。企業に入社して年をとらなければ上流層になれないのなら、自分でのし上がって上流層を勝ち取ってやろうという考え方が若者の間に浸透し、閉塞感の中で鬱屈していた精神が、逆に起爆剤となって彼らに下克上を成し遂げる力を与えたのである。彼らは「実力」を元にのし上がり、社会の上流層に成り上がった。そんな彼らは「ヒルズ族」などと呼ばれるようになって、世間でもてはやされた。「ホリエモン」などはその一典型であったと言って良い。まさに彼らは今まで年齢の階層の中で上流層ではない部分に位置づけられていた者たちであり、彼らがのし上がるという現象は全ての「上流ならざる者」に希望を与えるかに見えた。しかし、「ホリエモン」が一躍人気者になったことで、彼が上流層になれたのは学歴があったからだ、というような批判も聞かれるようになった。”上流層にのし上がった者を、別の理由から固定化した上層に位置づける”というこの状況が、私には奇妙でたまらない。社会の「上流ならざる者」はこうもひねくれた精神の持ち主であるのか、或いは二分化された世論を私が一元化して誤解釈してしまっているだけなのか。原因はどちらでも無さそうだと思う私は、もっと深い奥があることを勘ぐってしまうのである。

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2006年3月12日 (日)

人と接する能力

 今日は近所の焼き鳥屋に行って夕食を食べた。その焼き鳥屋は数ヶ月前に一度行ったことがあって、値段がとても安かったので(どうやら全国的にチェーン展開している店らしい)また行ったのだが、今日は前回よりも非常に楽しく食べさせていただいた。何が楽しかったかって、店員の馬鹿さ加減が、である。

 店はそこそこの繁盛具合で、店員は忙しそうに動き回っていた。その中で新人らしき初々しさの若い店員の兄ちゃんが私たちのテーブルの担当らしかった。その兄ちゃんは、私の母親が「おしぼり持ってきて」だの「お茶急須ごと持ってきて」だの言う、大阪のオバちゃん臭い強引な注文にも懸命に応対してくれていた。それでも手際の悪さに母は苦笑いしていたが、懸命さに好感が持てる兄ちゃんだった。私が注文を追加したときなどは、何を頑張ろうと思ったのか、「そちらの方はチューハイなどいかがでしょうか」と私に聞いてきていた。私は未成年なんだけどなぁと苦笑いしながら、でも中央公論を読みふけってる未成年なんて何処にいるんだと自嘲してしまう。店の入り口には「未成年に酒はお売りしておりません」としっかり書いてあったのだが、店としては飲んでくれるなら未成年でも売りたいのだろう。最近では「ウチの店では未成年らしき客には年齢確認をしています」と自慢げに語る居酒屋チェーンの社長もいるが、どうせ「ガタイが良くて未成年にはとても見えなかった」とか言い逃れの口実を用意しているのがオチである。私の場合は「オッサン臭いので未成年には見えなかった」と言われるのだろうか。それならば、こちらにも甚だ迷惑な話である。
 さて、だんだん私たちのお腹もふくれてきた頃、店員が注文を間違えだすようになった。注文した数以上の串カツが届いて、普通なら「こんなもの注文してないよ」と文句を付けるところなのだが、なんと間違えて届けられた串カツの分が伝票につけられていない。これは儲かったシメシメなんて思いながら、食べていたのだった。さらにもう一つ驚いたことは、イカの一夜干しを注文しようとしたら「イカの一夜干しですか?今焼いております」との返事。注文していないのに焼いているとは、この店員は予知能力でもあるのかと(笑)。別のテーブルの注文と勘違いして言ったんだろうなと思っていると、帰り際にイカの一夜干しが届く。間違えてるとは言え、絶妙なまでのタイミングの良さ。私の家族のテーブルに持ってきたら何でも食べてくれると思ってるんじゃないだろうかと怪しみながら、愉快な店員のいる店を後にした。

 私が気になったのは、店員の馬鹿さ加減に抱腹絶倒していたときに親父が何気なく呟いた一言である。「よくできる店員はまともなところに就職して、こんな情けない奴はずっとアルバイトなんやろなぁ」。この一言を聞いて、私はニート問題に関するある論文を思い出した。去年の中央公論4月号に掲載されていた「『対人能力格差』がニートを生む」と題した論文である。書き手はニート問題の主要な論客である本田由紀氏。世間では格差社会とはヒルズ族みたいな億万長者と、ニートみたいな無産市民との学歴から生じる月とスッポンのような格差が語られがちであるが、実際にはそうでないと思う。同じアルバイトから始めた者同士の中でも、コミュニケーション(接客)能力に優れている者はその後の待遇が変わってくるだろうし、そうでない者はずっとアルバイトのまま留まらざるを得ない。こうした”対人能力の格差”はあらゆる部分で人々の間に格差を作っている。これが、より身近な格差社会の現実ではないかと思う。

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2006年3月11日 (土)

皇位継承問題を巡る議論のスタンス

 永田議員がメール疑惑で派手に自滅してしまってから、メディアは自民党と一緒に民主党叩きに必死の様相であるが、民主の「4点セット」追及姿勢が出来上がる前、一時世間を沸かしていた話題は皇位継承問題であったことを思い出していただきたい。紀子様ご懐妊のニュースによってこの問題が引っ込んだことで、「この問題について今は触れるな」という世間の気風があるかもしれないが、皇位継承に関する問題は紀子様のご子息が男女どちらであろうと、いずれ本質的に避けては通れない道であると思われる。中央公論4月号でも「紀子様ご懐妊で、大局を見失うな」という記事でこの問題を論じる必要性を訴えている。
 この議論を巡っては、有識者会議で多数を占めた「女系天皇賛成派」と、それに対し一部のコアな保守層を中心に形成された「女系天皇反対、男系維持派」に分かれる。女系天皇と女性天皇の違いについて、メディアでは意図的なほどに詳しく取り上げることをしなかったので、世論がどのような流れか、ということはこの議論の正統をどちらかに決定する要素にはならない。しかしながら、女系賛成派は緩やかな保守層も巻き込む形で広い支持を得ており、紀子様のご懐妊がなければ、議論の趨勢が女系を是とする方向に進む可能性が高かった。愚見を述べさせていただくと、この問題は女系天皇とすることで女性の地位向上を暗に狙ったフェミニズム的な背景があるような気がしてならないのだが、そのような先入観を排して問題を巡る両派のスタンスについて考えてみた。

 まず至極簡単なことからまとめていくが、この議論において両派がとっている立場は、女系賛成派は文字通り現状の制度を女系天皇容認に「改革」することであり、男系維持派は女性天皇をやむなく承認するとしても出来るだけ「現状維持」をしたい構えである。両派に共通する見解は(一部の極端な意見を除いて)、次世代の女性天皇容認は状況によりやむなし、という点だ。
 この両派の立場について確認した上で女系賛成派の改革の理由から見ていきたい。改革派の理由は、私が見てきた限りでは次の二つに大別できると思う。それはすなわち、
 1.天皇が男系である必要はない
 2.これから先に天皇家に男子が生まれてこず、今回と同様の問題が起こる可能性を危惧して
である。私としては二点目の指摘は至極妥当なように思う。それが現実的な視点に基づいた制度論だからである。男子が生まれない可能性を肯定するのが無前提であることなど課題点は多いが、この点によった主張ならば議論を煮詰めていく価値があろうかと思う。
 しかし、女系賛成派の主張を聞くと、一点目の主張をする人が圧倒的に多いことに気付く。そして私はこの主張にとても懐疑的だ。それはなぜか。この種の主張は真の意味で自らの主張とは言えないからである。もう一度よく考えて欲しい。この主張は、天皇が男系である必要性を否定しているが、あくまでも男系である必要性を否定しているに過ぎず、この主張単独では女系である必要性を立証していないのである。無論、現在の状態の否定に加えて、女系にする論理的必要性を述べているのなら良い。だが、現実の論争を見てみると、女系賛成派が「男系である必要がない」と言うのに対して、男系維持派も「女系にする必要はない」と言い返しており、結局のところ両派共に男系or女系”である”必要性を論理的に訴え得ていない。”である”必要性を訴えるときに引用されるのは、歴史や神話のつじつまから取ってきたような論拠であり、それはどちらの解釈にもなりうるという点において、もはや論争は「神学論争=価値観・イデオロギーの対立」の様相を帯びてきている。

 話を元に戻そう。私がここで問題にしたいのは、「主張Bの否定⇒主張Aの肯定」という誤った論理構成であり、こういう点で公然と詭弁の応酬が行われていることに論争に参加している識者たちは気付かなくてはならない。「主張Bの否定⇒主張Aの肯定」の論理が成り立つのは、現状があまりにも酷すぎて、それに代わる案ならどんなものでも現状を少しはマシにしてくれるだろう、と世間一般が信じて疑わない場合のみであり、その場合にのみ、主張Aの肯定を個別に論証するプロセスを省略しても構わないのである。
 この皇位継承問題に関して言うと、現状(この場合、両派が認めている女性天皇の一時的擁立がそれにあたる)に致命的な問題があるとは言えず、それを敢えて改革する必要を訴えるならば、現状に比べて改革案が明らかに優れているという論証がなくてはならない。だから、改革派が現状維持派に対して議論の優越性を明確に証明し得ず、この論争が引き分けである以上は、現状を変える積極的な必要性が認められないのだから、結果的に現状維持の立場をとるべきである。競技ディベートの世界では、議論が引き分けた場合には「ブレーク・イーブン」として現状維持派の勝利となることが決められている。現状を改革するのは、良い点悪い点共に可能性が未知数であり、それなら可能性がある程度見えている現状のほうが安全であるという論理に基づく。資本主義に対するアンチテーゼとして形成された社会主義理論が実際の国家になったとき、その内実が粛正の嵐が舞う凄惨なものになることを誰が予測できたであろうか。
 この故に、私がこの問題に対して論理的な結論を下すならば、男系賛成派でも、女系賛成派でもない、「穏健派」として現状維持を主張するものである。

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