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2005年11月 8日 (火)

新書というオーソリティーの失墜

 最近は本の中でも特に新書がブームだと言われている。新書などはよく買って読む私だが、なるほど最近の新書は数も多く感じる。今まで新書を出す出版社と言えば岩波、中公あたりだと相場が決まっていたものだが、最近はあらゆる出版社が新書の分野へ新規参入をしてきている状況だ。
 新書の数が増えて中身はどうなったかというと、私の所見では時事問題やハウツーについて扱ったものが増えているように感じる。このような状況に、私は新書が今までの新書にあらざるような、そんな違和感を覚えた。

 私が新書に期待するもの、それはやはり優れた社会評論である。学校の先生に岩波の旧い新書を薦められて読んだり、或いはディベートの試合に向けて専門知識やデータなどを集めるときに、幾度となく新書は読んできた。丸山真男や高坂正堯らの優れた思想家の理念に触れて感化されたこともあれば、環境関連の興味深いデータなどを収集できたこともある。そこで私が触れてきた新書というものは、思想・理念の異なりこそあれ、全てが何らか納得せざるを得ないような優れた社会批評であったのだ。この築き上げられてきた新書というオーソリティーが失墜しつつあるように感じるのは、やはりハウツーと時事問題という二つの逸脱した存在ができたからであろう。

 ハウツーとは、日常の役立つことや、何らかの趣味・学問の実践術を指すものであるが、これらハウツーは読んで考えさせられることがない。そこに書いてあるのは何らかの根拠を元にした論理ではなく、単に何かのやり方や方法論に過ぎないからである。「考えなくても方法は示してくれるから、その通りにやればいい」という簡潔な用法はまさに「知を愛する」余裕を持てなくなった皮肉なリアリストである現代人にぴったりなのかもしれないが、その故に私はこれらを忌み嫌うのである。思考を失った人間はおよそ機械に過ぎないとも言えよう。

 もう一つの忌むべきは、時事問題についてあまりにも早く取り上げることだ。本来、直近の時事問題について語ることは週刊誌やオピニオン雑誌に任せておけばいいはずであるのに、新書がこれを引き受けてしまった。早期に出版された未熟な評論が売れて、時間が経ってから出された秀逸な評論が目を向けられないというのは、忌むべきである。それどころか高尚な社会評論を新書に求めている人にまで、失望と軽蔑の念を与えてしまう。

 新書という保たれたオーソリティーが崩壊しつつあることに、やはり社会の愛知欲の薄弱さなどを感じ取れずにはいられないのである。

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