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2005年6月 2日 (木)

「差別語」という言論統制

 テレビなどのマスメディアでは、放送禁止用語というものが存在する。放送禁止用語は卑猥な発言、差別的な発言がこれにあたるとされ、マスメディアはこのような用語の取り扱いについてとても慎重である。しかし差別語という概念については抽象的で、何を言ったから差別に当たる、という明確な区別は存在しない。何の根拠もなく、ただ差別語だから、という理由で差別語とされる言葉も少なくない。

 例えば、らい病という病気の名前を知っているだろうか。らい病とはハンセン病の旧称であるが、現在では差別語とされている。差別語とされる理由はらい病という言葉が歩んできた歴史的経緯を忌避してのものであるが、その言葉の単なる置き換えに何の意味があるのか、私には理解できない。らい病とハンセン病の症状は同じであるから、らい病という言葉がこれから差別語として使われなくなったとしても、ハンセン病という言葉が同様の差別的ニュアンスを含んで使用されるかもしれないのである。それは差別の本質を見直したとは言えない。単に差別的ニュアンスの言葉を選んで廃する「言葉狩り」の現実である。ちなみに私は戦国時代の大谷吉継という武将が好きなのだが、彼はらい病にかかって顔を覆面で覆っていたことで有名だった。彼のかかった病の名称がらい病だろうと、ハンセン病だろうと、私の彼に対する評価は変わらないだろう。

 作家の筒井康隆氏はらい病に関する作品中の記述が市民団体に批判されたことで憤りを感じ、一時断筆宣言をした。彼は差別語と称して「言葉狩り」を行う世の中を断筆という行動で痛烈に批判したのであった。『現実に厳然として存在する差別から、差別ということばを取った時、その行為を見てわれわれは何と言えばいいのか。』という筒井氏の発言はまさに当を得ている。差別語に対する目に見えない規制が強まる現在、それはあたかも「差別語」の名の下に行われる言論統制のように感じる。

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コメント

差別が、単に言葉を変えることによって無くなるとは思わない。むしろ、表面的で、なぜ、差別され、差別してきたのかという本質から逃げた一時的な手段だと思う。これが、差別をなくす、第一歩だと思う人がいるのかもしれないが、むしろ、差別語だといわれたことによって、差別が深まる恐れもあるとおもう。聖書の中でイエスがライ病の人を癒したとき,それは、ライ病というもっとも忌み嫌われた病でさえ、イエスがさわり、慈しみをもち、確信をもって癒したというインパクトがある。「重い皮膚病」では、そのインパクトも半減するのではないか。今、まだいろいろな意見を読んで,聞いて、検討中だけれど、「言葉狩り」というものに対し、目覚めていなければいけないなと、思った。

投稿: | 2009年1月31日 (土) 00時39分

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