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2005年6月25日 (土)

終わらない資産バブル・後編

 資産バブルが起こっている現状は昨日の日記で述べた。その中で資産バブルを引き起こすような株式投資できる資金余剰がある人々を富裕層と述べたのだが、これはどういう人なのだろうか。それは最近増えた個人投資家の年齢層を見れば簡単に分かることなのであるが、定年退職して退職金を受け取り、これからは年金で生活していける資金余剰のある50~60代の人々である。だが、これらの人々が株式投資をするということに重大な欠陥がある。なぜなら、これらの人々はあくまでも資金に余剰があるから株式投資をしているだけであって、実際には稚拙な知識のまま株式投資に手を出してしまって、結局は大半が投資で失敗しているからである。

 これらの人々が投資で損をするということは、他の誰かが得をしているということである。誰が得をしているのだろうか?それは市場を意図的に操作する仕手筋と呼ばれる人々や、意図的に株価を操作する企業側なのである。株式市場でのマネーゲームに長けた彼らは弱小株主からなけなしの金を吸い取る。そうして結局は彼らだけに資金が集中するのである。日銀の貨幣大量発行の恩恵が全体で感じられないのは資産バブルが起こっている閉鎖的な株式市場において、彼らに資金が集中するからなのである。

 最近は市場の原理だけによって業績などの本質が見合わないまま巨大化する企業も多く見られる。そういう実態のない企業がテレビなどの重要な社会インフラを市場の原理だけで買収するという事態になってしまったとき、日本の経済は果たして良い方向へ向かうのだろうか?私は従来のテレビ放送に引き替えて、インターネットでテレビ番組を配信するという絶対不可能なビジョンを堂々と語る某IT企業社長を見たとき、長年ノウハウを築き上げてきた大企業が、経営手腕のない企業に支配されてダメになっていくという悪夢のような将来を思い浮かべた。あれがテレビ企業だっただけでも恐るべきことだが、買収される側がトヨタや松下だったら、そしてそれが成功していたらどうなっていたことだろう。日本の経済は資金の氾濫という状態によってマネーゲームによる社会になってしまう危険性があるのである。その予兆が資産バブルであるということをしっかり認識しなければならない。

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2005年6月24日 (金)

終わらない資産バブル・前編

 最近はよく景気は回復傾向にあると言われている。だが私たちのような庶民にとっては全く実感のないものだ。そういう今回の景気回復の性質を多数の経済学者は「階級社会へ向かっている」だとか「所得の二極化」とか評しているが、その中でもこの手の主張の急先鋒となった森永卓郎氏は「年収300万円時代が来る」と言って国民の危機感を煽り立てた。階級社会とか二極化というのがどういうものか簡単に説明すると、一部の高学歴エリートが上手に金を儲けて富裕層になって、一方でその他の大多数の庶民層は所得が落ち込み困窮した生活を送らねばならない日が来る、というものである。そして、そうした傾向は現在の経済市場の動向にも見ることができるのである。

 日銀は景気回復のための量的緩和政策を行ってきた。要は貨幣を大量に発行して日本国内に出回るお金の量を増やすのである。だがこの金融政策が比較的長く続けていたにもかかわらず効果がなかなか出ないのは、お金の流れがある一定の部分で停滞しているからである。そのお金の流れが停滞している場所、それは最近個人投資家の参入で活発になってきた株式市場である。多くの人々が株投資を行うようになったということは、それだけ資金に余剰のある人が出てきたということなのである。こうして大量のお金が株式市場という枠内だけで循環するようになってしまった。この富裕層のマネーゲームだけが活発になってきた現在の経済の状況は「資産バブル」と呼ばれている。現在の市場のお金の流通量はバブル期と同じくらいになっているらしいのである。実は資産バブルという現象は市場だけで資金が流通することから、思わぬ影響を日本経済に与えてしまいかねない。そして、それはこれからの日本の経済の本質を変化させてしまいかねないものである。

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2005年6月23日 (木)

「生命」の効率化を目指すアメリカ

 米国が体細胞クローン技術で生まれたクローン牛の乳や肉は食品として安全で、味も問題ないとの結論を米食品医薬品局(FDA)がまとめ、近く発表される見通しになった。この発表の影響で米国では近い将来クローン牛の肉や乳などが他の食品と同様に販売されることになるかもしれない。このようなクローン食肉導入の動きは米国の畜産業者などが推し進めていると言われるが、クローン技術に関してはまだ反対論も根強く、クローン食肉が導入されたとしてもそれは反対派を押し切って行われる形になるだろうと予測される。以前からクローン羊などのクローン家畜を生み出していることで世界の最先端を行っていた米国だが、遂にそれの食用化が実現段階に入ってきたことで、今一度米国の食品に対する主義・ポリシーなどを考え直してみたいと思う。

 今までにも米国は最先端のバイオテクノロジーを駆使して生産効率を飛躍的に上昇させてきた。それは現在の時点でも米国の農業で遺伝子組み換え食品が主流になっていることからも分かるだろう。そのようにして米国が遺伝子組み換え食品などを推進する背景には、今では米国の代名詞とも言えるほどに定着してしまった大規模農法が影響している。彼らは機械化社会の恩恵を農業の効率化に結びつけたときから、新技術は全て生産の効率化という目的に傾けてきたのだ。彼らが目指すのは一つ一つの種子から育つ「生命」に心を込める農業ではなく、自動車工場のベルトコンベアの製造工程のようにオートメーションで製造されていく農業である。全てを合理化して捉える西欧人にとって、作物は「育てる」対象ではなく「製造する」ものなのである。実際に米国では大規模農法に使用される作物は種子を残さないように作られているなど、植物が種子を残し子孫を作っていくという人間の歴史の営みと同じとも取れる仕組みを、彼の国は否定してしまっているのである。

 そのうち政治の効率化を目指すなどといってホワイトハウスのメンバーを全てクローンにするなんて言い出すかもしれない。米国の大臣が全てブッシュになったりなんかしたら、それだけで世界は終わりなのである。

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2005年6月22日 (水)

カード社会の杜撰な情報管理の実態

 米国クレジットカード大手のマスターカードとビザで4000万人分の顧客情報が流出するという前代未聞の事件があった。情報が流出したのはマスターカードとビザが業務の一部を委託しているカードシステムズ・ソリューションズ社からで、同社のネットワークのシステムの欠陥につけ込んで不正アクセスで情報を盗み取られたそうだ。この情報流出事件の国内への影響は、国内の少なくとも2万人の顧客情報が流出しているという。

 今回の事件は現代のカード社会が内包する顧客情報の管理についての欠陥が浮き彫りになったものだと言える。カード社会であるということは、このような事件がいつかは必ず起きてしまうということを決定づけていたのである。カード社会がもたらした利便性に限らず、手間を省くという利便性は、どこかの過程の処理が一括でなされるということであり、その処理が集積した部分にこそ、欠陥は今までよりも重大なものとなって現れるのである。システムの構造上で必然的に情報漏洩の危険性があるカードをなぜ人々は多用するようになったのか。最近ではネットでの買い物でカードしか使えない場合というのも多い。カード社会の利便性とは逆の現金取引による信頼性を求めている顧客のことも考えていかなければならないだろう。

 流出した顧客情報は、本来クレジットカード会社の方で管理しているものだったのに、業務の効率化から下請け会社が無断で保存していたものだという。これはどう考えても顧客情報についての認識が甘すぎる。マスターカードは今回の事件に関して「カードが不正利用されても利用者は保護される」と強調していると言うが、盗まれた個人情報はどうやって補償するのか。マスターカードは今回の情報流出事件を深く反省してお詫びするべきである。マスターカードのCMで「流出してしまったお客様の個人情報:priceless」というテロップを出して今回の事件に対する会社側の誠意を見せるべきだ。そうでないとヤフーBBの情報流出事件のように顧客が逃げていってしまうことになりかねないのである。

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2005年6月21日 (火)

燃料高騰と産業の将来

 原油価格が更に高騰しようとしている。19日のニューヨーク原油先物相場で、米国産原油の指標値が1バレル=60ドル近くまで上昇し、過去最高値を更新した。この流れを受け、20日の東京工業品取引所でも、日本の石油会社が調達する原油の指標となる中東産原油の先物が上場来高値を更新した。
原油だけではない。石油と同様に工業製品の原料としてよく使われる石炭や鉄鉱石は、石炭が前年度比2.3倍、鉄鉱石が1.7倍に高騰している。この原料高騰の影響は日本の全ての製造業に波及している。

 このように各種工業原料が高騰しているわけは中国、インドなどの途上国が急激に経済発展し、工業化に向かっているためである。原料高騰が途上国の発展によるものだということになれば、それは一時的な高騰に終わらないということになる。これからは更に原料価格が高騰していくことも十分に考えられるのだが、そうした需給逼迫の状況の中で日本のような先進国はどのようにすればよいのか。

 日本が産業分野で世界をリードする技術と言えば「省エネ」がその代表格である。当初はこのような技術を導入した製品は製造工程での高コストから、販売価格が他製品に比べて高く、それを買うのは地球環境に対する意識が極めて高い消費者だけであったが、現在は状況が違う。更なる省エネ化とコストダウンによって、商品購入時点での価格差は大きくても、使い続けたときの燃費などの維持費(ランニングコスト)の軽減で最終的に消費者が支払う金額はエコ製品の方が安いということが言えるのである。消費者の意識の問題ではなく、経済的な面で確実に従来製品を圧倒しているのである。これから更に原油価格の高騰が懸念される中で、このような省エネ製品は更に需要を増していくと考えられる。そしてその省エネ技術の最先端を担うのは日本であること、このことに私は日本の産業の将来がまだ明るいことを強く感じるのである。

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2005年6月20日 (月)

鯨を食べないと魚も食べられないのである

 国際捕鯨委員会(IWC)の年次総会が20日、5日間の日程で韓国の蔚山市で開幕した。IWCはその名の通り鯨を捕獲する量について取り決めを行う国際機関である。毎年鯨の捕獲量増加に向けての提案を、日本などの海産物をよく食べる食文化の国(ノルウェーなど)が中心となってするのだが、それ以外の欧米諸国が鯨の捕獲量増加を一切許さないという姿勢を崩さず、結局提案は却下されてしまう状況だ。鯨の捕獲について議論される場合、鯨そのものを食べるべきかどうかだけに焦点が当てられがちであるが、実際には日本人にとってそんな考え方だけでは済まされない大きな問題が鯨捕獲の背後には存在しているのである。

 鯨は海洋生物であるが、魚類ではなく哺乳類に属していることから、その高い知能や独特の習性を持つ生態を保護しようという動物愛護の精神の対象になることが多い。そんな人々は鯨を食用なんかの目的で捕獲するなと主張するのであるが、鯨というのは食べたときにそれほど美味しいものなんだろうか。私は何回か鯨の刺身を食べたことがあるが、海の哺乳類である鯨は赤身で脂肪分は少なく極端に味が淡泊である。冬場に食べるはりはり鍋や尾身の刺身はなかなか美味しいが、それ以外の肉は牛豚鶏肉に比べると明らかに味が劣る。昔は給食で鯨がメニューに出ていた時代があったらしいが、その世代の人が語る鯨の味は概して「美味しくなかった」という感想である。同じ海産物なら、マグロやハマチなどを食べている方がずっと美味しいのである。

 だが、鯨はそれらの魚類海産物と密接に関係しているのである。鯨は基本的にエサとしてたくさんの魚を食べる。鯨が食べる魚の量はとてつもない量で、そのために魚が減り各国の漁獲高低下に影響するということがあるのだ。このことは海産物を食文化の基調とする日本にとって大変なことである。適度に鯨も食べないと、美味しい刺身や寿司があまりたくさんいただけなくなるのである。不健康な家畜の肉ばかり食べている欧米の人々には分からないかもしれないが、鯨を獲らないことは日本の食文化が失われる重大な危機なのである。

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2005年6月19日 (日)

戦後60年、英霊が求めたものとは何だったか

 太平洋戦争の激戦地だった硫黄島で今日、政府主催の戦没者追悼式が開かれ、小泉純一郎首相や遺族ら約100人が参列、命を落とした2万人以上の兵士らの死を悼み、平和への誓いを新たにしたという。硫黄島は太平洋戦争で最初に本土決戦が行われた場所であり、同島に配属されていた栗林忠道中将率いる守備隊の地の利を活かした効果的な持久戦法と、しかし米軍の圧倒的な戦力の前に健闘かなわず最後に玉砕したという事実はあまりに悲壮で感動的である。この硫黄島を守備した兵士たちは一体何を想い、何を考え悲壮な戦闘を繰り広げたのだろうか。

 追悼に参加した遺族代表の松村信子さんは追悼の辞で次のように述べている。

 わたしたちは皆さま方のご遺志に思いをいたし、歯を食いしばって肉親と助け合い、豊かな家庭、平和な国を築き上げてきました。そして、日本は平和国家として世界平和に大きく貢献しています。
 皆さま方が片時も忘れなかった家族も立派に成長し、日々充実した暮らしをしております。どうぞご安心ください。
 皆さま方のご加護のたまものと存じます。このことをご報告できるのをわたしたちは心の慰めとしています。

 この追悼辞の行間から私は亡くなった御霊の想いを感じた。それは、硫黄島守備隊の兵士たちはやがて戦地になるであろう本州本土に住んでいる家族を敵の手から守りたかったことではないだろうか。守りたいものを守りたくて、過酷な戦場を戦い抜いたのではなかろうか、と。

 現在、日本の憲法9条改正に伴う自衛隊の国軍化などが活発に議論されているが、この時に60年前の戦争で死んでいった御霊たちの想いを考えて欲しいのである。かつて戦争はそれがどのような経緯で行われたにしろ、兵士たちは家族を守りたいという意志から過酷な戦場に臨んだこと。そしてそれは弱い者いじめであったり、戦争という手段自体の美化では決してないのである。私たちは御霊たちが守ろうとした家族、国民の命をこれからも守り抜いていかなければならないのである。

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2005年6月18日 (土)

飲酒が何だ、文句あるか!

 最近の国会はつまらない。小泉内閣は「今が郵政改革の正念場」と称して郵政改革に向けた論議が行われているが、国民はそんな郵政改革にも何ら興味を示していない。それは政府が郵政改革の具体的にどうなるかという説明を怠っているからであるが、とにかく国会での論議は全く国民の関心を惹くようなこともなく、これでは国民の政治意識低下は避けられない状況である。小泉内閣成立当初の田中真紀子や鈴木宗男などが活躍していた時期に比べると、今の内閣は話題になるような民間人からの大臣採用という話もなく、今までの何をやってるか分からないような”お役人”の均一な顔が揃っている。国民の政治離れを食い止めるためにも、国会にはもっと話題性が欲しいものである。

 17日夜に開かれた国会では、社民党の阿部知子政審会長が自民党の一部の議員を「酒気帯びで登院」したとして批判し、野党が投票を30分にわたり拒否するという顛末があった。結局議長の勧告で投票は行われたのだが、議会終了後に民主党が飲酒議員を懲罰するように求めてきたのに対し、自民党も相手の党に飲酒議員がいたなどと言って懲罰動議を提出するなど、水掛け議論の様相になっている。

 しかし飲酒に対して文句を言えるほどの論議を他の国会議員は果たして行っているのだろうかと私は気になる。全く国民の関心を惹かないような、あたかも象牙の塔の中で行われているような国会の論議に対して、飲酒議員よりもむしろ飲酒していない議員は何をやっているのだろうと思うのである。シラフでまじめくさってても、国民の話題にも上らないようなつまらない論議をして一方で私腹はしっかり肥やしているのはお前らじゃないか。それを考えるとむしろ飲酒をしていた方がいいのではないかと思うのである。まじめくさった雰囲気の国会の中で言いにくいことを酒の勢いに任せて言ってしまえばいい。ハマコーのような破天荒で国会の保守勢力を打破してしまうようなパワーのある政治家が今の日本には必要なのである。この際いっそのこと「無礼講国会」なんてのも作ってしまえばいいのではないか。酒の酔いの赴くままに、党派を超えて腹を割って言い合えるような、そんな国会も必要だと思うのである。国会での飲酒は認めるべきである。

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2005年6月17日 (金)

日本が常任理事国入りを目指す意義とは

 日本、ドイツ、ブラジル、インドの4カ国(G4)の国連常任理事国入りを求める動きが活発になってきている。日本やドイツの常任理事国入りは以前に何度か提起されたが、結局理事国入りできなかった経緯があり、日本とドイツにとって理事国入りは悲願である。しかし常任理事五カ国は常任理事国を増やすのに消極的であり、今回も常任理事国入りは厳しいと見られる。

 そもそも国連というものは今でこそ世界のあらゆる国々が所属している最大の連合だが、その発足当初のメンバーは現在の常任理事五カ国を中心にした国々、つまり第二次世界大戦の戦勝国で占められていたのである。日本語では「国際連合」と呼んでいるが、その正式名称の「United Nations」を日本語に直訳すると「連合国」となるのをご存じだろうか。現在の国連はその実第二次世界大戦の戦勝国の主導によるものであるということを忘れてはならない。それだけに第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツが常任理事国入りするということは戦後の戦勝国主導の世界政治体制に終止符を打つねらいもあるのだ。

 先進国の発展が一段落し、次は発展途上国が力をつけて先進国に並んでくると思われる近い将来を考えると、もはや先進国が主導の立場をとる国連の形態は時代遅れだという指摘もある。今回のG4常任理事国入りに対しても、インドネシアなど一部の発展途上国からは常任理事国を増やすよりも発展途上国などの発言権も強くして欲しいとの主張が出ている。その中でもし日本が常任理事国入りできることになれば、日本は今までの五大国主導の国連から途上国にも目を向けた新しい国連への移行の先導役となることが使命のように感じられる。

 G4を巡る各国の情勢は、中国が日本との歴史的問題を持ち出して理事国入りを牽制してくるなどしている。米国は2カ国なら常任理事国入りさせてもいいとの見解を発表して、G4の結束に離間の策を仕掛けるつもりのようである。その中で日本を始めとするG4諸国は、これからの国連を形作る先導役としての使命を心に刻み、大国以外からの多数の支持もとって、常任理事国入りを果たせるほどの万全の体制を整えていくべきである。

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2005年6月16日 (木)

EUとその内在する矛盾の拡大

 EU(欧州連合)は近年拡大を続け、加盟国の通貨をユーロに統合して米国のドル経済圏に対抗するなど、世界経済の重要な一角を担う地位にのし上がってきている。EUはベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の経済的同盟が元となって拡大したものであるから、経済的な結びつきは非常に強力である。ヨーロッパ経済圏はその経済的協調関係において、電力の輸出入を可能にするなど、一種の理想的形態になっていると言えよう。その経済的結びつきを更に強化すると共に政治的結びつきも強めようと、EUでは欧州憲法なるものが建議された。欧州憲法はEU各国で国民投票が行われたのだが、フランスとオランダで否決されるという結果になってしまい、政治的経済的統合を進めつつも内部で各国の利益を巡っての矛盾が拡大していることが浮き彫りになった。

 前述の通りEUは近年拡大を続け、数年前には東欧諸国も統合して一層巨大化した。だがそこには根本的に存在するそれぞれの国家の思惑の違いという問題、つまり政治体制の違いや経済構造の違いがあるのだ。それを無制限に統合しようとする動きは確実にEU各国の経済に犠牲を強いてきたのである。ユーロ通貨統合などの動きはEU経済圏を米国経済圏に対抗させようと無理をした結果の産物であるように思われる。
ヨーロッパ各国の経済はほとんどの国が長年の不景気に悩まされている。フランスでは失業率が10%前後であったりするのだが、日本が失業率5%前後で大騒ぎしているのとは桁違いである。その中で自国の経済ではなく「EU」としての経済の発展を促そうとする動きがこのような欧州各国の不景気を更に悪化させてきたことは想像に難くない。

 内在する矛盾を抱えつつも、急ぎ足で統合を進めることによって矛盾を見ないようにしてきたこれまでのEU統合の動きは、国民投票の否決という出来事によって、統合の動きはストップされ、しかも今まで無視してきた矛盾を見ることを余儀なくされた。既に各国経済の破綻は各国の政治体制の揺らぎとなって現れ始めている。これからEUはその内在する矛盾から各国政治体制の崩壊を招きEU自体が瓦解するのか、それとも強力なリーダーシップによって強行的に統合が進められるのか。今後もEU情勢からは目が離せない。

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2005年6月15日 (水)

金正日を包囲せよ!

 北朝鮮に関する様々な問題は2005年に入ってからもなお解決の糸口は見えない状況だ。日本において北朝鮮に関する最も大きな問題は拉致問題であったが、5人の拉致被害者とその家族が全員帰ってきて一段落ついた今、他の拉致被害者の所在の究明を要求しても、譲歩したつもりになっている北朝鮮が応じることはないだろう。その拉致問題に変わって今年に入って表面化してきたのは彼の国の核開発問題である。以前から核開発については憶測が飛び交っていたが、北朝鮮政府が正式に核開発を行っていることと、更に核兵器の製造にも着手していることを公表したので世界は騒然となったのである。拉致問題は人道的に許されない問題だが、被害人数が数十人と少ないので、世界各国の間で検討するほど大きな問題ではない。それに対して核開発問題は世界各国が全て重く受け止めて考えなければならない問題であり、その中で非核宣言国である日本は大きな働きをしていかなければならないだろう。

 しかしながら北朝鮮の強硬外交によって、北朝鮮との唯一の対話手段である六カ国協議が開催不可能な状況になってしまっている。これが日本などの国々の悩みの種になっているのである。北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び最も激しく対立している米国では、金正日に対してブッシュ大統領が「ミスター」の敬称を付けて呼ぶなど展開から目を離せないが、実質上の進展はほとんどないに等しい。ブッシュ大統領が融和の姿勢をとってライス国務長官が北朝鮮に対して従来の強硬発言をするという矛盾した姿勢は、劇団型犯罪でよく使われる手口にそっくりで見ていて面白いものではあるが。

 北朝鮮に対しては、六カ国協議で全部の国が揃ってから話し合いを始めましょう、なんていうのんびりした姿勢をとっていては何も事態の進展は見られない。そもそも六カ国協議の参加国が米国以外は北朝鮮の周辺国であるという状態である。周辺各国では盛り上がっているが、何の関係もない欧州などでは全くと言っていいほど関心がないのではなかろうか。北朝鮮が核開発という世界の安全保障に関わる問題を提起してきた今、一部の国だけで対話するというのは甘すぎるのだ。世界の国々に北朝鮮問題をもっと身近に感じてもらうように、この問題は国連の会議に回してしまうべきなのである。もう金正日を甘やかしていてはいけないのである。

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2005年6月14日 (火)

JAL機は安全か?

 私は14歳になるまで飛行機に乗ったことがなかった。赤ん坊の頃に一度乗ったことがあるらしいのだが、そんな頃の経験は覚えていない。だから実質14歳の時に中学校の修学旅行で乗った飛行機が初めてだったのである。小さい頃の私には飛行機と聞けば「墜落するもの」というイメージがあった。自動車には毎日乗っていて、そこではいつも事故をする危険があるというのに慣れてしまっているものだから気付かない。だけども飛行機は墜落事故などの報道でしか接する機会がなかったから、どうしても「墜落するもの」というイメージを払拭できなかったのだ。

 しかし初めて飛行機に乗ったときは私は14歳という分別の付く年齢になっていたし、旅行の楽しみが先行していて、肝心の飛行機の怖さは全く感じていなかった。あれから3年経った今年は高校の修学旅行がある年で、北海道への旅行に飛行機で行くのである。だが今年は重大な違いがある。なんと帰路の便で乗るのは私がいつも乗っていたANA機ではなくJAL機なのである。ANA機に乗っているときは全く事故の恐怖も感じない安全運転であったが、脱輪などの事故の報道が絶えないJALの機体は本当に安全に飛行するのだろうか。

 現在のJALは、JASと合併した後の姿である。だから当初はANAと互角に張り合えるだけの企業規模があったはずなのだが、相次ぐ事故の影響で業績が伸び悩んでしまった。このような輸送機関の企業の不祥事はどうしても脱線事故のあったJRの企業体質と比較して考えてしまう。パイロットは専門職であるから技量は十分に備わっているのだろうが、そのパイロットが不備をやらかしてしまうということは労働環境が悪いことの影響ではないかと勘ぐってしまうのである。航空機の脱輪は整備の不備が原因であることは言うまでもない。これもまたJRと同様に、企業の利益を追求する姿勢から徹底した無理なコストダウンを行った結果ではないかと考えてしまう。航空会社という限定的な市場競争があるところでは、このような事故は軽微であればなかなか見直しが進まない。それでもJALは大手企業であるから私はそれに乗るしかないのである。映画のワンシーンのような派手な胴体着陸は必要ない。安全に着陸してくれるだけで私は満足なのである。

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2005年6月13日 (月)

郵政改革後の郵貯のあり方

 現在小泉政権が第一に推し進めている改革は郵政民営化である。何回目かになる今の小泉内閣の閣僚がいつになく味気ないメンバーになっているのは郵政民営化を第一義に据えて実力のある人材を揃えたと言うことだから、気合の入りようが違うのだろう。(今回の組閣が最も話題性もなく無能なものに見えなくもないが)その小泉内閣が全力で推し進める郵政改革だが、我々の生活にどのような影響を及ぼすかが明確に見えてこないという理由で、国民の郵政改革に対する興味はかなり薄い。外交問題のニュースとかなら積極的にチェックしている私でも、郵政改革は興味の限りではないので、未だに郵政改革の問題点についてははっきりと把握していないのである。

 民営化が進められる郵政事業だが、民営化するということは、民営化された後の企業が市場の競争力の中で生き残っていけるかが最も重大な問題である。その中で他業種と競争関係になることが今の時点から考えられる郵政の事業分野は存在している。例えば郵便貯金は銀行の預金制度と競争関係にあるのではないだろうか。現状で郵貯と銀行預金の違いを最も明確にしているのは銀行預金のペイオフ解禁による預けたお金の保障額である。銀行預金はいくらでも預金できる代わりに銀行が倒産した場合は1000万円までしか保障されないというのがペイオフ解禁であるが、それに対して郵貯は政府が行っている事業だから倒産する心配はない。預金額は必ず保障されるという安心があるのだ。しかし郵貯の預金最高額はペイオフの最大保障額と同じ1000万円なのである。人によれば巨額の資金を安心して長期に預けることができるところを求めているのではないか。そのような人々の要望に応えて、郵政改革後の郵貯は低利率の代わりに預金額上限なし、預金額全額保障をしたらよいのではないだろうか。これは一試案に過ぎないが、民営化後の郵政事業は他の類似業種との差別化をどうやって行うかに存続がかかっていると思われる。

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2005年6月12日 (日)

こら、好き嫌いをするな!

 冷戦時代の下で行われた広大無辺な宇宙開発計画は、冷戦の終結と共に縮小規模にあるが、技術の平和的利用への夢がふくらむロボット産業は急激に進歩してきている。その進歩の先端を行くのはもちろん技術大国である日本だ。日本人は人間の身近で暮らすロボットの存在を夢見て育ってきた。鉄腕アトム、鉄人28号、アラレちゃん、ドラえもん、、、これらの日本人のロボットへの憧れが現在の高い技術水準の原動力になっていることは言うまでもない。ロボット産業こそ「夢の産業」なのである。

 ところで、漫画やアニメに描かれたロボットには概して人間と同様の五感機能が備わっているのであるが、実際に現在のロボット工学で実現するのが難しいと言われているのは味覚と嗅覚だそうだ。触覚、聴覚、視覚などは物理的な法則によっているので実現しやすいが、個々の好みなどで千差万別となる味覚、嗅覚については実現が難しかったのだろう。しかしNECシステムテクノロジーは、三重大学生物資源学部の橋本教授の研究室と共同研究を進めていた、味覚を備えたパートナーロボット「健康・食品アドバイザーロボット」を開発したと発表したという。

 味覚を備えたロボットが誕生したと聞いて、私はロボット工学の技術が着実に人間の身体の機能を忠実に摸したものへと近づいてきていることを実感せずにはいられない。しかしこの工学によって人工的に作り出す味覚というものは一体何を好んで、何を嫌うようになるのだろうか。科学的には、旨み成分として有名な「グルタミン酸」を美味しさの基準にするだろうことが考えられるのだが、それが全く含まれていない食べ物だと「まずい」とでも言うのだろうか。逆にロボットの味覚は単純で、「味の素」を加えればどんな料理も美味しいと言ってくれるかもしれないが。

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2005年6月11日 (土)

三大国が対峙する中央アジアの地政学

 中央アジア情勢がまた新たな進展を見せた。中国が三月に政権崩壊したキルギスに軍を駐留させることを検討していることが明らかになったという。旧ソ連圏で相次ぐ民主主義運動による政権転覆の動きが中国国内に波及するのを事前に阻止するのが目的とみられる。既にキルギスには米軍とロシア軍が駐留しており、中国の駐留が実現すればキルギス国内で三大国が対峙することになる。

 以前のコラムでも書いたとおり、中央アジア旧ソ連圏での最近の民主化の動きは連鎖的に起こり、勢いは国境を越えて周辺諸国に及び、止まるところを知らない。私の見るところ、この民主化運動の連鎖はウズベキスタンで政府が強硬手段に出たことにより、一旦は沈静化するだろうと思っている。しかし短期間で複数の国が一挙に民主化してしまったという事実は、非民主的な国々の恐れるところとなっているのだ。中国は国内にウイグル自治区やチベット自治区などの、過去に軍事力で無理矢理服属させた自治区を持っているため、民主化の動きに敏感になっているのだろう。しかしながら、冷戦時代から軍事大国として君臨してきた米国とロシアの二大国の対峙に軍事新興国である中国が割り込んでいったという事実はとても興味深い。一方で以前から駐留をしていた米国とロシアの思惑は何だろうか。

 米国は9・11テロ以来、「テロとの戦い」をスローガンにテロ撲滅のための強硬手段に出てきた。だがテロ鎮圧と称する米国の動向の軌跡は、その実イスラム過激派との戦いであるように感じられる。外的な軍事圧力ではなく宗教的浸透圧をもって版図を広げるイスラム勢力が次に浸透してくるのは中央アジアである可能性が高い。現に中央アジアで起こった一連の民主化運動のうち、ウズベキスタンの運動はイスラム過激派の煽動によるものということだ。米国にとって「テロを防ぐ」というのは「イスラム勢力の波及を防ぐ」と同義ではないだろうか。
残るはロシアであるが、彼の国は自国の旧領であった地域が民主化によって瓦解していくのを眺めているようにしかできないように思われる。この影響がチェチェン勢力のように波及しないことだけを願っているのではなかろうか。

 三大国が揺れ動く中央アジアの掌握に積極的に乗り出した結果と見られるキルギスの対峙だが、その実はそれぞれが自国の安定を守る必要に迫られての進出に過ぎないという消極的な背景も浮かんでくるのである。

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2005年6月10日 (金)

日本に諜報機関は必要か

 今月の「中央公論」誌では面白い論説が私の目を惹いた。それは日本は戦後ドイツを見倣って対外諜報機関を設置せよ、というものだった。著者は自らが外交畑にいた人物で、拉致問題に関わった経験から、誰の見解も加えない直接的な生の「第一次情報」を得る必要を感じてその主張に行き着いた、ということである。著者が日本に見倣うべきと説いたドイツの諜報機関に関してはこちらを参照されたい。

 しかし私がその論説を読んで思ったのは、確かに諜報機関は有用であるが、それほど設置するのに切迫した事情があるとは述べられていないところである。具体的な機関の用途として唯一挙げられているのは拉致問題であるが、拉致問題は現在の日朝間の重要な議題であっても、その被害は十数人に過ぎず、日本の安全保障に重大な影響を及ぼす問題ではないのである。諜報機関は言わば情報戦略に関しての”攻め”のポジションを取るようなものであって、覇権主義国家の用にはなるかもしれないが、日本にはさして必要だとは思えない。

 また、私が諜報機関という大げさな言葉を聞いて必要に及ばないものだと思ったのは、現行の制度でその代用ができるのではないかと考えたからだ。それは各国の大使館の有機的利用である。二国間の外交において、相手国と直接の橋渡し役となる駐留大使は非常に重要なカードである。それを有機的に利用できれば、現地での情報収集から相手国との交渉までを一貫して行えるものであるからだ。

 しかし現状の大使館、そしてそれを統括する外務省を見たとき、その不甲斐なさと無能さにはつくづく落胆させられるものである。利権構造が内部を蝕んだ外務省から独立した情報収集ルートを考える場合、そこでやはり諜報機関は必要になってくると言えるだろう。だが実際に設置する算段になったときとしても、米国の諜報機関CIAの解体などが検討されている現状で新たに諜報機関を結成する必要があるのか、更に疑念は生じるのである。それだけ諜報機関というものはメリットとデメリットが混在するセンシティブなものだと捉えなければならないだろう。

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2005年6月 9日 (木)

日本にステイツマンは現れるのか

 政治とは難しいものである。日本は民主主義になってから早100年も経つが、未だに国民が納得するような政策をとれる政治家は現れない。国民が理想とする政治の形態から今の政治がかけ離れていると思ってしまうのは、政治家に汚職がついて回るという理由によるのかもしれない。本当に理想の政治家はいつになったら現れるのか。

 日本よりも民主政治の経歴が長い欧米諸国では一口に政治家といっても、それを指し示す言葉は一つではない。英語で政治家を指し示す語は「ステイツマン」と「ポリティシャン」の二つが存在する。二つの意味の違いはステイツマンが「公平無私な良い政治家」というニュアンスを持っているのに対し、ポリティシャンは「利権などを重視する政治屋」といった風に訳し分けられる。この意味の違いを知ったときは私も思わず感心してしまったものである。欧米の民主政治についての成熟度には日本はまだまだ及ばないのだろう。

 さて、政治家の汚職が起こる構造とは何だろうか。それは政治家が選挙時に莫大な選挙費用を地元企業に資金援助をお願いすることから始まる。そうして他人に金を出して貰って当選したという負い目がある政治家は、その支援者に対して何らかの対価を支払わなければならないと思うだろう。そんなことから不正な談合などの癒着構造が生じるのである。それを防ぐにはどうしたらよいか。それは簡単である。選挙時に必要な資金を自前で揃えて選挙に当選すればよいのだ。それで少なくとも支援者に対して負い目を感じるということはなくなるだろう。

 こんな風に言えば、それは金持ちによる政治で民主政治とは思えない、と言われる方もいるかもしれないが、こうしたケースの方が支援者や利権団体が政治家をあやつり人形にしてしまうという事態は防げるのである。古来、国の政体を民主政へと導いた主導者には、打倒される側であるはずの貴族に属していた例も少なくなかった。古代ギリシャが民主政へと向かう足がかりとなった「ソロンの改革」を行ったソロンは貴族だった。彼のような先見の明を持った、それでいて既存階級のうちで力を有している者が有能な指導者となれるのだ。

 日本の志ある金持ちよ、ステイツマンを目指す条件を揃えているのはあなた方だけなのだ。なに、政治の知識がなくて困るだって?それなら私を政策顧問として雇えばいいではないか。

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2005年6月 8日 (水)

長者番付を廃止させるな

 政府税制調査会は1日、確定申告で所得税が1000万円を超えた高額納税者の氏名や税額などを公示する制度を2006年(05年分)から廃止する方針を固めた。4月から施行された個人情報保護法の影響で納税額なども個人情報にあたるため廃止になったそうだ。この長者番付は過去に何度も廃止が検討されてきたが、個人情報保護法に触れるという理由で今度こそ廃止になるのだろう。ところで、この羨望や嫉妬の的にしかならなさそうな長者番付は一体社会の中でどのような役割を果たしているのだろうか。

 長者番付は国民の義務である税金を多く納めた高額納税者を表彰するというところが起源なのかもしれないが、実際の社会の中ではもっと実用的な役割を果たしている。それは脱税者チェック機能である。長者番付を公表しておけば、「あの人は普段から贅沢な生活をしていて大きな屋敷も構えているのに、長者番付には載っていない」という市民の素朴な疑問から脱税者が判明する可能性が十分にあるのだ。実際に一昔前の長者番付制度には、情報提供者に対して報償金を脱税発見額に応じて支払う「第三者通報制度」も導入されていたほどである。

 実際に今の長者番付にも載っているはずなのに載っていない怪しい人物は山ほどいる。九州を代表する大手企業麻生セメントの経営者の一族である麻生太郎が載っていないことや、北陸で権勢を誇った田中角栄の娘の田中真紀子が載っていないことは怪しすぎるのである。納税は国民の義務だ。その義務から逃れる者がいるということは断じて許してはならないのである。

 一方で自分が金持ちであることを自慢したいがために長者番付に載ることを目標にしていた人もいるかもしれないのだ。私もできるなら一生に一度くらいは長者番付に載ってみたかったのである。

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2005年6月 7日 (火)

変わる日本、伝えたい不変の心

 今朝、私はいつものようにニュースを見ていた。私が毎朝見ているのは、日本テレビ系の「ズームインSUPER」だった。ニュース番組としては内容の解説もしっかりしていて、毎日見るのであった。ちなみに「ズームイン」は司会が福留功男さんの頃から見ている。

 ニュースは丁度ヨットで世界横断に成功した史上最高齢のおじいさんのことを取り上げていた。71歳になるそのおじいさんは快活に話し、しかも受け答えはとってもユーモアに富んでいた。早い話、とても元気で若いのである。ニュースは生中継でつながっているおじいさんに旅したヨットの中を説明してもらっていた。ヨットの中の生活感溢れる様子が説明された後、最後に取材していたアナウンサーはおじいさんに「最近の若者に何か一言ありますか」みたいなことを聞いた。その瞬間、おじいさんはそれまでの明るい表情から厳しい表情に突然変わり、やや口どもりながら次のようなことを話した。
「今の若者はニホン人ではなくニッポン人でなくてはならない」
「今から60年前、日本の子供たちは少年兵として駆り出されていた」
「今の若者は欧米に比べて気概が劣っている」
突然厳しい表情で喋ったおじいさんに、アナウンサーと司会は気圧されて二の句が継げない状態のまま、次のニュースへと移るしかなかったようだった。その時、朝の寝ぼけた状態だった私は、このおじいさんの話を聞いてその後一日中考えていたのだ。おじいさんは一体今の若者に何を伝えたかったのだろうか、と。

 私が一番気になったのは「少年兵」という言い回しである。60年前の子供たちは戦争という時代に翻弄されて生きていた。勉強を受けることもままならず、ある程度成長したら兵士として駆り出される時代である。おじいさんはその激動の時代の中でもなお、必死に生きた当時の子供の姿を強調したかったのではないだろうか。あの時代から60年、平和な時代に教育を何不自由なく受けられるようになった現代の子供たちが、「人権」の名の下に権利だけを訴える様子を苦々しく思っていたに違いない。今一つ最後に現代の子供に対して「甘ったれるな!」とでも叱咤したかったのかもしれない。「ニッポン」という大きな話をしている以上、他にも何か訴えたいことがあったかもしれないが、私にはおじいさんの言葉がその生きた年輪の重みと共に深く感じられたのだった。

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2005年6月 6日 (月)

民主主義の国に亡命させてくれ!

 数日前、シドニーの中国総領事館の元政治担当領事、陳用林氏が豪州当局に政治亡命を申請した。理由は中国政府による反体制派への弾圧とされているが、オーストラリア政府は陳氏の受け入れを拒否した。現在、陳氏は豪州国内で妻子とともに隠れて住んでいるそうだ。陳氏は89年の天安門事件の際の民主化運動に参加した後、再教育を受けて91年に外務省に入省したという。

 天安門事件とは、89年の6月4日に中国北京の天安門広場で起こった民主化デモを軍隊で弾圧した事件である。当時の学生を中心としていた平和的民主活動が軍の装甲車の乱入により、一瞬にして悪夢に変化したと言われている。この事件における死者は、公式には319人とされているが、この数字が中国当局の発表によるものであることを考えると、実際の死者は更に多かったことが考えられる。

 この事件は中国の政治弾圧の実態を示す出来事としてよく挙げられるが、現在の中国はどうなのだろうか。一昨日の4日は天安門事件から16年経った日であったが、この16周年を前に中国当局は民主運動家への監視を強化し、その結果十数人が拘束されたそうだ。16周年当日には、まだ民主主義の色彩が残る香港で集会が開催され約4万5千人が参加したが、この数は去年の半分に過ぎず、民主化運動の規模が縮小していることを示している。これは中国政府の徹底した情報操作の結果だろうか。16周年であるこの日に、中国の新聞各紙ではこの事件の記事が全く取り上げられなかった。残虐な事件の記憶は確実に中国国民から消えていっているのである。こういった事件の風化が中国政府に対する憎悪の念を忘れさせ、不満を国外にぶつけるような反日デモの動きにつながったという見方もある。

 さて、この亡命を申請して拒否された外交官だが、当人の発言によると中国政府のスパイがオーストラリアにも潜伏していて拉致・強制送還される、と恐れているようだ。なぜ各国はこのような人物の亡命を認定してやらないのか。オーストラリアが認定しなくても日本が代わりに認定してやったらいい。恐らく彼の目的は、中国という圧政国家から逃れ、民主主義国家に住むことなのだから。

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2005年6月 5日 (日)

おいアメリカ、それは筋違いだろ!

 反日デモが発生して以来、国際世論は中国への非難を強めている。このことは日本にとって世界世論がバックに付いているという安堵感をもたらすものであるが、一方で「世界世論」は一つにもとまっているわけではなく、その中には未だに日本の戦争責任を追及する動きがあることを忘れてはならない。特に5月にはアメリカの新聞各紙で日本に対する戦争責任を追及する論説が相次いで掲載された。

 米国が日本を非難する論説を書くときに、中心に据える問題は南京大虐殺である。なぜなら第二次世界大戦における敗戦国のうち、ドイツはユダヤ人大虐殺を行っており、南京大虐殺はユダヤ大虐殺のアジア版として受け止めやすいからである。南京大虐殺の規模については数十万人であるという見解の肯定説と、数十万人には満たないとする否定説とが存在する。南京大虐殺の規模がどれほどであったかという真実は分からないが、否定説の中には戦後アメリカが日本の戦争責任を追求しやすくするために誇張を加えてでっちあげた事件であるとする見解も存在する。一方で海外では基本的に犠牲者は数十万人以上であるとする肯定説が有力なのが現状だ。

 話を戻そう。アメリカの新聞各紙に掲載された論説が非難するその要旨は「日本は過去の侵略行為を完全に認めたことがない」ということである。しかし、100歩譲ってそれを認めたとしても、非難している当のアメリカはどうなのか。現在の日本は戦前とは違い、平和を宣言した世界で唯一の国家であるのに対し、アメリカは未だに世界の紛争地域に自国の「正義」を振りかざして武力解決しようとする国家だ。それに、アメリカはその限りなく黒に近いグレーである紛争介入行為に対し、「あれは過ちだった」と認めたことがかつてあったのか。アメリカが日本の戦争責任を批判するのは、明らかに自分の立場を棚上げした無責任な言動であるに他ならない。

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2005年6月 4日 (土)

マッチョになれるマウス

 私はパソコンのヘビーユーザーだ。もちろん私は学校に行かない引きこもり、ニートの類ではない。しっかり学校には日々通っているのだが、学校から家に帰ってくると玄関で靴を脱ぎ、自分の部屋に入るなり服も脱がず、手も洗わず、まずPCの電源を付けるのが習慣である。その後PCの僅かな起動時間の間に素早く服を着替え、手を洗ってPCの前に戻ってきていつもの「定位置」に着席する。定位置に着席したら最後、寝るまでほぼ画面の前である。

 私のデスクトップパソコンが置いてある場所は勉強机のすぐ隣である。勉強机の横にPCがあるということは勉強・宿題中も常にその誘惑があるということである。勉強をやり始めて少し休憩したくなると、PCの前に椅子を移動させる。そうして移動したまま元の宿題の存在を忘れ去る。よくない日常だ。最近はそうした自堕落な習慣を改めようと、PCの前で勉強することにした。1年半前にPCを買い換えて以来、液晶17インチディスプレイになってスペースが空いた私のパソコンデスクでは、キーボードの横に勉強用具を広げて学習することが可能なのである。

 しかしそうしてパソコンの所為で勉強ができないという問題を解消しても、まだ重大な問題が残っているのである。それは運動不足だ。毎日家から離れた高校に通うのにそれなりに歩くので太りすぎることはないのだが、筋力が不足するのが甚だしい。体育の授業は絶対に私の敵だ。
そんな中でなんと、パソコンをしながら筋力を増強するマウスがあったのである。USBケーブルから分岐する電極パッドを身体に貼り付けて電気振動がくる仕組みだそうだ。誰かこのマウスを購入して、家にいながらボディビルダー並みのマッチョになりましたって人がいたら教えて欲しいのである。実際に効果がある実例を見たら私も買ってみようと思うからだ。電気振動で筋力増強するのはいつぞやのアブトロニックと同様の仕組みでうさんくさいと思っているのは内緒である。

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2005年6月 3日 (金)

求められる情報管理の倫理

 住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)はプライバシー権を侵害し違憲だとして、石川県内に住む28人が国や県、住基ネットを管理する「地方自治情報センター」を相手取り、個人情報の住基ネットからの削除や損害賠償などを求めた訴訟で5月30日、金沢地裁の井戸謙一裁判長は「住基ネットからの離脱を求めている原告らに適用する限りにおいて、憲法13条(個人の尊重)に違反する」とし、石川県と同センターに対し、原告の個人情報の削除、行政機関等への情報提供差し止めを命じる判決を下した。住基ネットからの離脱を認めた判決は初めてであるが、判決理由に幸福追求権などを定めた曖昧な内容の憲法13条条文が引用されていることからして、今後判決は逆転する可能性がありそうだ。

 住基ネットは導入当初から個人情報流出の危険性が訴えられてきた。住基ネットは地方から国全体を包括するネットワークであるため、情報を保存している中枢部のネットワークに侵入できなくとも、その情報を共有している地方自治体の末端ネットワークから侵入して情報を盗まれる危険性があるのだ。既に優秀なハッカーはネットワークに侵入して個人データを盗み取っているかもしれないのである。

 98年にアメリカで公開された映画に「エネミー・オブ・アメリカ」というものがある。陰謀に巻き込まれたウィル・スミス演じる主人公の弁護士が個人情報を盗まれ、ハイテク機器で身元所在を追跡されるというストーリーである。そこで主人公と共に陰謀を暴く手助けをするのがジーン・ハックマン演じる元情報機関員なのであるが、そこに出てくる廃屋の中の彼の住居は、独自ネットワークを構築し外界とのコネクトを一切遮断したものであった。

 日本はユビキタス社会を標榜し、ネットワークによる家電などの全ての情報統御を行うことを目標としている。だがそれはパソコン一台をハッキングされただけで家の全ての機能が奪われてしまうことを意味しているのではないか。将来、映画に出てくる元情報機関員のように、外界との接触を一切断たなければ個人情報を守ることができない日が来るのかもしれない。

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2005年6月 2日 (木)

「差別語」という言論統制

 テレビなどのマスメディアでは、放送禁止用語というものが存在する。放送禁止用語は卑猥な発言、差別的な発言がこれにあたるとされ、マスメディアはこのような用語の取り扱いについてとても慎重である。しかし差別語という概念については抽象的で、何を言ったから差別に当たる、という明確な区別は存在しない。何の根拠もなく、ただ差別語だから、という理由で差別語とされる言葉も少なくない。

 例えば、らい病という病気の名前を知っているだろうか。らい病とはハンセン病の旧称であるが、現在では差別語とされている。差別語とされる理由はらい病という言葉が歩んできた歴史的経緯を忌避してのものであるが、その言葉の単なる置き換えに何の意味があるのか、私には理解できない。らい病とハンセン病の症状は同じであるから、らい病という言葉がこれから差別語として使われなくなったとしても、ハンセン病という言葉が同様の差別的ニュアンスを含んで使用されるかもしれないのである。それは差別の本質を見直したとは言えない。単に差別的ニュアンスの言葉を選んで廃する「言葉狩り」の現実である。ちなみに私は戦国時代の大谷吉継という武将が好きなのだが、彼はらい病にかかって顔を覆面で覆っていたことで有名だった。彼のかかった病の名称がらい病だろうと、ハンセン病だろうと、私の彼に対する評価は変わらないだろう。

 作家の筒井康隆氏はらい病に関する作品中の記述が市民団体に批判されたことで憤りを感じ、一時断筆宣言をした。彼は差別語と称して「言葉狩り」を行う世の中を断筆という行動で痛烈に批判したのであった。『現実に厳然として存在する差別から、差別ということばを取った時、その行為を見てわれわれは何と言えばいいのか。』という筒井氏の発言はまさに当を得ている。差別語に対する目に見えない規制が強まる現在、それはあたかも「差別語」の名の下に行われる言論統制のように感じる。

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2005年6月 1日 (水)

平成の大合併を食い止めろ

 総務省は30日、新市町村合併特例法に基づき、2005年3月末までに合併が決まらなかった地域を対象に引き続き合併を推進するための基本指針を正式発表した。新たに都道府県がまとめる合併の構想について具体的な組み合わせを示した指針は以下の通りである。
 (1)生活圏が同じ地域
 (2)行政権限が強くなる政令指定都市や中核市、特例市を目指す
 (3)人口1万人未満
また、都道府県は構想の作成について十分検討するための「審議会」を速やかに設置するよう求めているという。これは市町村数を現在の3200から1000に減らすことを目標としている「平成の大合併」を推進する施策の一貫であると言えるだろう。かつて日本では数多くある市町村数を減らすため「明治の大合併」「昭和の大合併」が政府によって断行された。行政区画の整理という観点からすれば必要なことであったのだが、なぜ今また「平成の大合併」が行われるのか。

 市町村合併のデメリットの一つは伝統ある市町村名が消えてしまうことである。由緒ある家柄の苗字と同じく、伝統ある市町村名はそこで暮らす人々に地縁共同体の誇りと結束を与えてきた。例えば大阪府の南部では富田林市と南河内郡の町村との合併が検討されているが、南河内郡の千早赤阪村はこれに断固反対している。千早赤坂と言えば、建武親政の動乱時に楠木正成が農民と共に立てこもって鎌倉幕府軍を退けた千早城、赤坂城の名称に由来する伝統ある村名である。このような伝統が単なる合理化のために消えていくことはなんとも寂しいことではないだろうか。
また合併は自治体の領域を広くするものであるから、自治体行政は都市の中心部にかかりっきりになってしまい、発展していない農村部などの末端部分の行政はなおざりになり更に過疎化が進む。いわゆる行政サービスの低下である。

 国はこれら合併に反対する自治体には地方交付税などの打ち切りをちらつかせて合併を断行させているのである。最近では住民投票などで合併に反対する動きも出てきているが、住民投票は議会の権限で棄却することができるので合併の足止めにはほとんど役に立っていない。これを解決する手だては住民投票に法的拘束力を与えることくらいであろうか。市民感情を合理化の名の下に切り捨てる「平成の大合併」は何としても食い止めなければならないのである。

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