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2005年5月20日 (金)

かつての日本にあった慈愛の精神

 「もったいない」という日本語が海外で注目を集めているらしい。世界的に環境問題への関心が高まる中で無駄遣いを戒めるこの言葉が興味を引いたようだ。確かに「もったいない」という言葉には無駄遣いを戒めるニュアンスがあるが、日本で古来から使われてきた「もったいない」にはもっと奥深い含蓄があるように思われる。

 では「もったいない」という言葉は一体何を「もったいなく」思っているのだろうか。私はそれを、無駄遣いという行動そのものを指すのではなく、無駄にされる「モノ」への追慕の情ではないかと考える。
日本には古来から原始信仰としての神道が根付いてきた。その神道に現れる神がいわゆる「八百万の神」で、人の身の回りにあるもの全てに神が宿っていると考えられてきたのである。身の回りの物体を神として捉えるところから日本人のモノに対する慈愛の精神が始まったのではないだろうか。ある宗教に信心して偶像崇拝するという文化は日本ではそれほど濃厚に根付いてきたわけではなかったが、それは日本人が神を信じなかったのではなく、神という存在を意識せずに、ありふれた日常の中で神を信仰するという文化を身につけていたからではなかったか。

 しかし長い間育まれてきた日本人の慈愛の精神も、産業の近代化に伴い徐々に希薄になりつつある。それは食料から工業製品に至るまでのモノ全般が大量生産によって安価に入手できるようになったからである。壊れつつあるモノを慈しみ修理してあげることよりも、見た目も中身も同じ新しいモノを買う方が手間も料金もかからずに済む。日本は飽食の時代と言われて久しく、日本の国土で食糧不足にあえぐ農民の姿は見られない。やはりモノがあるという状態は人の心に驕りを与えるのだろうか。今「もったいない」という言葉が他国で受け入れられたとしても、日本人はその言葉を作り出した自分たちに胸を張っていけない状態なのだ。むしろ海外の人々のほうが「もったいない」の本質を理解し、その概念を大切にしてくれるかもしれない。

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