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2005年5月31日 (火)

「危険」を増殖させる夢の発電施設

 やはり最高裁の判決は行政追随なのか――。福井県の高速増殖炉「もんじゅ」を巡って、周辺住民32人が国による原子炉設置の無効を求めた行政訴訟で、最高裁は30日、二審の金沢高裁の判決を破棄し、住民側の請求を棄却した。判決は「安全審査に看過し難い過誤、欠落はなく、許可処分が違法とはいえない」と述べた。一度事故を起こした前例がある原発がなぜ安全だと言い切れるのか。原子力安全神話などとっくの昔に崩壊しているのである。

 高速増殖炉とは、ウランを燃やして燃やした量以上の燃料(プルトニウム)を生成する原子炉である。燃料を生成するということから、「夢の原子炉」と言われた。しかし通常の原子炉よりも高温になるため、冷却剤を通常使われている水ではなく熱伝導性の高いナトリウムが使用されている。ナトリウムは非常に不安定な物質で発火しやすいという性質を持っているのだ。実際に95年12月には試験運転中にナトリウム漏れ火災事故が発生し、緊急停止を余儀なくされた。そのような「前科」を持つ試験段階の原子炉を稼働させることは、ただ危険であるとしか言いようがない。

 国はこれら原子力発電所を「安全」だと喧伝してきた。しかし同様に安全だと言われた新幹線も、いわゆる”食の安全”も既にその「安全神話」は崩壊してしまっているのだ。国が安全というお墨付きを与えたから、国が安全だと言っているから、という理由ではもはや信用できない段階にきているのだ。原子力発電所はその構造のあらゆる場所に危険性を抱えている。冷却系の配管、常時高温になる炉心、二次冷却系に利用される水の垂れ流し、炉心シュラウドのひび割れ、炉心容器の応力腐食割れ、、、それらは全て事故になる危険性が明らかに立証できるわけではないが、「安全」と言い切れるわけではない潜在的な危険性を抱えているのである。恐れていた事態が発生した場合にとてつもない被害が発生する原子炉において「ほぼ安全」という説明では済まされない。今回の最高裁判決は原子力事故に対する危険認識の甘さを露呈したものであると言えよう。

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2005年5月30日 (月)

日本人は「てぬぐい」を使うべきである!

 飽くなき経済成長を続ける中国に対し、世界各国は慎重な姿勢を取り始めている。それは欧米諸国の繊維製品に対するセーフガード(緊急輸入制限)の発動である。最近ではブラジルなど一部の発展途上国もセーフガード発動の検討段階に入っている。これによって中国国内の繊維業は大打撃を受け、失業者増大につながるとの懸念も強めている。しかし有効な打開策も見つからないという状況だ。

 そうした状況の中で日本はなんと繊維製品に対するセーフガードを発動していない。一時検討段階にあったが、2004年4月2日に調査が打ち切られてしまっている。一方で中国の安価な繊維製品の流入で国内の繊維業は窮地に陥っている。大阪府で繊維業が盛んな泉州地域に住んでいる私の親戚がいるが、近所の小規模な繊維製造の町工場は相次いで潰れていってしまっているという現実だ。なぜ欧米諸国がセーフガードを発動しているのに、日本だけが発動していないのか。中国のセーフガードに対する報復措置の脅迫を真に受けていては日本の産業は守れないのである。

 そもそも貿易や交易の原点は、地方にしかない特産物などを遠隔地同士で取引することであった。互いの特産物にかかる付加価値は、自分たちにないものを手に入れられる代償であり、人々はそれを喜んでそれを受け入れた。だから貿易が盛んになったのである。しかし、国内で製品を自弁できる以上は敢えて海外製品を輸入する必要はないのではないか。国内で製造されたものを国内の消費者が買い取るという経済循環には何処にも損害が生じる余地はない。

 今ではあまり見なくなってしまったが、日本には特有の「日本てぬぐい」というものがあった。言わば布一枚の簡素なタオルで、コンパクトに携帯することができ、水分を大量に含んでしまっても絞ればすぐに乾いて使えるという便利な代物だった。日本人は中国からの輸入品に対抗して、昔から伝わるこの日本てぬぐいを使うべきなのである。

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2005年5月29日 (日)

生きる活力に溢れたニートたち

 今月は五月ということもあって自殺が非常に多い。よく言う五月病の所為であろう。私なら自殺するにしても五月病だと分かり切っている五月にではなく別の月に死んでやるのにな、なんて思ったりするものだが、自殺する人にとってはそんなことを考える余裕もないのだろうか。私とほぼ同い年の高校生が25日に東京都三鷹市で線路に飛び込み自殺を図ったなんていう事件を聞くと、別に死ぬ気がない私まで陰鬱な気分になってくる。

 こういう自殺をする人の理由は様々だ。「目標がなくて生きる意味がない」とか「辛いことがあって現実が嫌になった」とか。確かに私も人生について何らかの目標を持って生きているから、その目標が無くなった人の心の寂寥は到底理解できないだろう。しかし世の中には人生の明確な目標・ビジョンを持たずして、それでもなお生きている人の存在を思い出すべきである。それはいわゆる引きこもりやニートである。彼らはもとより人生の目標がない。なくて日々茫洋と生きているのだ。自殺を考えている人は彼らニートを見習うべきではないか。自堕落な生活を送っていても死んでお詫びしなければならないほど日本は住みにくい国ではないのである。無理せず「あるがままに」生きていくという精神も必要なのではないだろうか。

 日々こうして社会の現象を分析し論評する日記を書いていると、社会のいたたまれない現実に向き合う機会が多い。大量の失業とか、途上国の幼児売買・臓器売買の現実とか。しかしいたたまれない現実を前にしてふと自分が解決できない問題を解決しようとして考え込んでいることに気付くのだ。それが分かった途端に楽になる。自殺を考えている人も上ばかり見ているから疲れるのである。下を見て自分よりもっと不幸な馬鹿なヤツを笑っていればいい。私は私の望むとおりに生きてゆこうと思うが、それがダメだったらホームレスになってでもゴキブリのようにしぶとく生き残ってやろうと思うのである。ホームレスになっても生きていける日本という住み心地の良い国に感謝するばかりである。

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2005年5月28日 (土)

大魔神を魅了した魔性の女

 98年のペナントレースのセリーグの覇者は横浜ベイスターズだった。その優勝の立役者となったのは大魔神・佐々木主浩である。必殺のフォークボールが打者をピシャリと押さえ込む様は実に痛快だったものだ。その後佐々木はメジャーリーグのマリナーズへ移籍した。メジャー移籍後も活躍を続け、メジャーのグラウンドに佐々木コールが巻き起こった。当時の野球選手の中で最も輝いていた彼は私生活もしばしばピックアップされた。彼は妻子を持つ立派な父親として、メジャー移籍後には佐々木の家族に密着する番組が放映されていたのをよく覚えている。しかしイチローが同じマリナーズに移籍してしばらく経つと、佐々木の活躍はあまり聞かなくなった。あの頃の佐々木はケガでもしていたのだろうか。活躍の話を聞かなくなって久しくなった頃、去年に突然日本に戻ってきたのである。

 佐々木は日本で再び大魔神の勇姿を見せてくれるのかと思っていたが、彼の投球には全くキレがなく、大魔神の面影は全くなかった。それどころかよき父親像の模範であった彼は女優の榎本加奈子と不倫していたのである。不倫の報道に動じなかった彼は、野球選手としてではなく、不倫男としてふてぶてしいほどの大魔神っぷりを見せてくれたのである。その後彼は妻と離婚し、榎本加奈子と結婚、そして先日榎本加奈子が出産していたということが明らかになった。もはやマウンドに立つ勇ましい大魔神の姿はない。

 しかし気になるのが彼は離婚する際に子供二人の親権を取っているということである。不倫しても彼はよい父親だったのだろうか。二人の子供は新しい母親の榎本加奈子になついているということであるが、プッツン女優で有名だった榎本加奈子はそんなに母親の役を立派にこなしているのだろうか。
不倫を再婚・妊娠・出産という形で既成事実化し、子供の親権も保持するということは普通に考えて尋常なことではない。その巧妙な不倫の既成事実化にはただひたすら驚くばかりである。彼はきっと「マウンドの大魔神」を引退して「不倫の大魔神」として人生第二のスタートをきったのだろう。

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2005年5月27日 (金)

擦れ違う日中の思惑

 先日、日本を訪問した中国の呉儀副首相が小泉首相との会談をドタキャンして国に帰ってしまうという珍妙な出来事が起こった。青い服を着たデブのババアが小泉首相をすっぽかして帰ったということだけだと、私は当初ニュースでこの事件を見た時にそう思ったのだが、よくよく考えてみるとこの珍事はこれからの中国の反日デモ後の新たな対日政策の方向性を示すものと考えられるのではないだろうか。

 中国で巻き起こった反日デモは、その過剰な振る舞いが国際社会の関心を惹く羽目になった。国際世論のほとんどが中国の振る舞いを非難し、日本を擁護する論調で統一されたことが中国側にすれば意外だったことだろう。その反日デモを最終的には中国政府が鎮圧するという形になったのだが、中国政府にしてみればこの措置が日本の意図に屈することとして屈辱的に映っていたのかもしれない。反日デモは沈静化し、日中関係は修復の方向へ向かうかと期待されたのだが、中国側は日本に負けたような形のままで終わらせることを潔しとしなかったのであろうか、靖国問題に関する発言を再び棚上げすることで今回の呉副首相のドタキャン劇の理由とし、日本に対する優勢な批判的立場を取り戻そうとしたのである。

 しかしこの問題に対する日本政府の対応は冷静沈着そのものだった。副首相のドタキャンに対して政府閣僚は厳しく批判することを控えたのである。中国側にしてみればこのドタキャンで日本の反中世論を煽り、日中の歴史問題を再び泥沼のような議論に発展させて国際世論を日本に不利な状況へとリードしようとしたのであるが、日本が相手しないという態度をとったことで、またもや外交上大人気ない中国を全世界にさらしてしまった。
そこまでして中国が日本に対する批判を止められない原因は中国国民の不満を常に国外へと向けていなければならないという事情にもよるのだろう。日本側としては、今回の冷静な応対のように「大人の態度」で臨むことが国際世論を味方に付ける方法であるかもしれない。

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2005年5月26日 (木)

八つ当たりしか知らない馬鹿

 福岡県二丈町吉井で2002年9月に起きた立てこもり女児刺殺事件で、殺人などの罪に問われた無職川村忠被告39歳の判決が26日、福岡地裁であった。谷敏行裁判長は「八つ当たり的に無抵抗で幼い女児を殺害した残忍な犯行」として求刑通り無期懲役を言い渡した。

 実はこの男、判決が決まるまでの間裁判官や関係者に報復をほのめかす脅迫まがいの手紙を100通も送りつけていたというのである。法廷でも証人を怒鳴りつけるなどの「不規則発言」が目立っていた。そもそもこの男が当時9歳の志歩ちゃんを刺し殺したのは、警察が妻に会わせるという約束を守らなかったからだという。なんと大人気ない男だろうか。自分の意見が通らないと子供を刺殺、或いは裁判官を脅迫である。こういう男は自分の感情を制御できないばかりか、自分の意見が正当かどうかという判断能力まで失っている馬鹿と見える。法治国家である日本で裁判官に対して脅迫したところでその主張が通るわけがない。脅迫文書を100通も書く根気と努力があるなら、死ぬまで強制労働でもさせるべきだ。

 しかし無期懲役ということは20年くらいでこの馬鹿も裁判所から出てくるのだろう。裁判所から出てきたとき、男は何をしでかすだろうか。反省の態度が全く見られない言動と行動から、関係者に報復をする可能性が大いにあるのである。だから今回の無期懲役という判決は求刑通りとはいえ、全くもって甘い。なぜ殺人罪を適応して死刑にしなかったのか。死刑という刑罰は、そいつに生きている価値がないから適応される刑ではない。そいつが生きていると社会の他の人々が大きな迷惑を被るから、社会全体の幸福安全を実現するために存在しているのである。この男を死刑にせず20年くらいで釈放して、それから再犯に及んでしまったらどうするのか。関係者がまた殺されるようなことにでもなれば、日本の司法は被害者をみすみす見殺しにしてしまうのと同じなのである。日本の司法は馬鹿への刑罰を重くするべきなのである。

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2005年5月25日 (水)

”母のことば”の大切さ

 現在アジアでは東南アジア諸国の発展がめざましい。特にタイ、マレーシアなどの国は首都に高層マンションが建設されるなど近代化が進み、先進国の仲間入りをしようとしている。ところが東南アジア諸国の一つフィリピンは近代化が遅れている。経済発展や近代化は国民の学力水準が上がることと密接に関係していて、教育水準が上がれば経済も発展していき国民が裕福になるのだが、フィリピンにおいては経済発展の基となる教育水準を引き上げるのを妨げているものが存在する。それは一体何だろうか。

 これらの東南アジア諸国は戦後まで欧米諸国の植民地となっていた歴史があり、フィリピンはアメリカの植民地となっていた。戦後東南アジアのほとんどの国は元の植民地支配していた国(旧宗主国)の文化的支配をを振り払ったが、フィリピンは独立してなおアメリカの文化的支配の呪縛から逃れられずにいる。その文化的支配とは具体的には言語のことを指す。例えば日本では英語を除く科目は全て日本語で習う。これは当たり前のことであるが、アメリカの文化的支配が色濃く残るフィリピンでは、本来ならフィリピンの言語で教えればいいはずの科目まで全て英語で習うのである。もちろん彼らは彼らの母語を小さい時から自然と身につけてきたはずなのに、学校の授業だけは自然に話すのではなく意識して勉強しないと身に付かない他言語である英語で学ばなくてはならないのである。これは日本人が数学とか社会とかの科目を全て英語で授業するといった場合を想像してみれば容易に理解できるだろう。フィリピン人の学力向上は英語が妨げているのである。

 その顕著な例がフィリピンの医師だ。フィリピンでは医師免許を持っている医師が看護師の免許を取るという珍妙な現象が起こっている。それは医師が看護婦の免許を取って賃金の高いアメリカで働こうとするからである。国民全体としては英語の所為で学力水準が伸びないのに、エリート層だけは英語が出来ることを良いことに国外へ去っていってしまうのである。これではフィリピン国内で経済の発展を牽引すべき優秀な人材が生まれないのである。
フィリピンは民族としての誇りと母語を取り戻すべきである。母から伝えられる最も自然な言語で学ぶことが学問の理解の一番の近道ではなかろうか。このように考えるとフィリピンの話が英語教育に熱をあげる日本にも無縁でないように感じられるものだが。

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2005年5月24日 (火)

原子力の安全利用は可能か・後編

 日本の原発はテロなどの意図的な犯罪の対象になりやすいことは分かったが、意図的な犯罪の対象にならずとも依然として重大な危険要因となっていることを見落としてはならない。むしろテロの標的となることよりも、これから述べる危険性の方が起こる確率は極めて高く、今のままでは大惨事になりかねないのである。
その危険とはずばり地震だ。日本は国内のあらゆる場所に原発を建設しているが、日本の国土はどこに行っても地震に遭う危険がつきまとう。日本の中に地震の危険がない安全な場所などないのである。

 だが本当に地震が原発を直撃するのか、直撃しても原発は大丈夫じゃないのかと疑う人もいるに違いない。確かに日本の原発は地震に耐えられるように設計されているとなっているが、その安全設計も中身は殆どが懐疑的なもので、原発が危険箇所に立地しているケースは数多い。ここで30年後までには85%の確率で起こると言われている東海地震を例にとってみよう。現在で既に東海地震が起こった場合の危険域に立地されている原発は存在している。浜岡原発という原発がそれなのだが、原発の下に活断層が走っている可能性が指摘されているこの原発を稼働させて良いのだろうか。
原発に一たび地震が来ると多重安全装置が作動する仕組みになっているが、止まればいいのは核反応を起こしている炉心だけではない。末端の冷却水を循環させている配管なども破断すれば放射能が漏れる危険性を含んでいるのだ。

 もし核爆発という最悪の事態になったとき、その被害は計り知れない。首都圏にほど近い東海原発で核爆発が起こった場合の被害者数を想定した「瀬尾試算」という有名な試算があるのだが、それによると35万人が急性死、後のガンなどを含めた後遺症でなんと700万人の死者を想定している。
このようにとてつもない危険性をはらんでいる原子力発電だが、日本ではその危険性はあまり認知されていない。原子力発電は日本のエネルギー・安全保障上の重大な欠陥であることをもっと広く知るべきである。

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2005年5月23日 (月)

原子力の安全利用は可能か・前編

 核は恐ろしいものである。日本は原爆の被害を受けて以来、世界唯一の核被爆国として核の恐怖を世界に訴えてきた。しかし最近では隣国北朝鮮が核兵器を開発するなど、核の恐怖はまだ日本につきまとって離れないという風である。日本はこれからも世界の核抑止運動の筆頭となって行動していく必要があるだろう。

 しかし世界で最も核の恐ろしさを知り、核を嫌っているはずの日本の中にその恐るべきものが潜んでいることを忘れてはならない。そう、それは原子力発電である。原子力発電は核エネルギーの平和的利用手段だとか、化石燃料が尽きた後の人類の最後のエネルギー源などとプラスのイメージをもって喧伝されているが果たして本当にそうなのだろうか。原子力発電所の中では発電するために常時核反応を起こさせているのである。かつての広島と長崎の爆心地と同じ状態が数十年後の同じ日本の中で人工的に作り出されているのだ。

 9・11テロ以来、世界はテロリズムの恐怖にさらされた。テロリズムの対象は当初アメリカだけだと思われていた矢先にスペイン列車爆破テロが起こった。このことで世界各国にはテロが起こるとの懸念と憶測が飛び交った。日本でも新幹線がテロの対象になるのではないかという憶測が生まれた。しかし日本には新幹線よりも恐ろしい火種になりうるものがあったことを国民の多くは気付いていなかった。それこそが原発なのである。例えば9・11テロと同様に飛行機が乗っ取られた場合、最も日本の国土にダメージを与えられる地点はどこだろうか。何かシンボルとなるものにテロを仕掛けて国民に精神的なダメージを与えるのも手であるが、人的被害を優先しようと思えば、それは原発以外にない。飛行機という巨大なものが突っ込んだ場合、原発が無事とは考えられないのだ。最悪の場合核爆発もありうるだろう。別に飛行機を乗っ取らなくとも、警備の手薄な日本の原発は簡単に占拠できる。占拠してしまえばそいつらの思うツボである。日本は核爆発か、大きく不利な条件を呑まされるかの選択を迫られるであろう。だが原発の恐ろしさはこれだけに留まらないのだ。

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2005年5月22日 (日)

アイヒマンの真実

 あなたはアドルフ・アイヒマンという男を知っているだろうか。戦後ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)に深く関与したとして裁判にかけられ死刑になった男である。戦後にナチスドイツ幹部の中で死刑になった者は多いが、この男がイスラエル当局に裁判にかけられる様子は全世界にメディアを通じてほぼリアルタイムで報じられた。その裁判の中でアイヒマンは「私は何もしていない。指示に従っただけだ。」と終始一貫訴えたが、次々と不利な証言をする証人が出廷し、彼は遂に死刑となってしまった。その生々しい裁判の様子をその時代に生きた人々はよく知っているのではないだろうか。

 アイヒマンは実際には虐殺の現場に立ち会ったことがなく、アウシュビッツに向かう列車に番号を書き込むだけの事務員だったとも言われている。そんな彼が死刑にさせられた理由は何だったのか。その理由をイスラエルの陰謀だとする説が有力である。
ナチスドイツがユダヤ人の虐殺計画を実行段階に移そうとしていた時期は、折しもユダヤ人の間でいわゆるシオニズムの活動が活発化していた時期だった。シオニズムとはユダヤ人を民族発祥の地パレスチナに帰らせようという思想・運動である。この運動を先導したシオニストたちはその時ユダヤ人を疎ましく思っていたナチスドイツと利害が一致し、ドイツ国内からパレスチナにユダヤ人を移住させる計画を共同で練っていたと言われる。実際にその動きの中でアイヒマンはパレスチナに一度招待されて行っているのである。その後ナチスドイツはユダヤ人を虐殺する方向に向かっていったと言われるが、戦後になってシオニストとナチスが協力していたということが明るみに出ればイスラエル側にとって他国に疑惑を与えかねない事実である。それをまずいとでも思ったのであろうか、戦後アルゼンチンにまで逃亡したアイヒマンはイスラエルの諜報機関モサドに捕らえられて連行され、裁判にかけられたのである。

 アイヒマンは次々と自分に不利な証言ばかりを突きつけられる中で一体何を考えていたのだろうか。本当に彼が列車に番号を書くだけの役人で上層部の命令に従っていただけなのだとしたら、口封じのために死刑になったのだとしたら、彼の死は一体何だったのか。しかし彼が何も言わず世を去った今になっては、彼の死の真実を探る手がかりは歴史の闇に葬られてしまったのである。

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2005年5月21日 (土)

議員の場外大乱闘

 埼玉県警東松山署は20日、東松山市の男性市議46歳を傷害容疑でさいたま地検熊谷支部に書類送検した。この男性市議は居酒屋で同席した同僚議員にヘッドロックをかけて全治二週間のケガを負わせたとされる。二人は議会の案採択を巡って意見が対立していたようだ。

 ヘッドロックといえば誰もが知っている有名なプロレスの必殺技である。たまに友人と戯れてプロレス技をかけあったりもするが、一旦この技をかけられるとなかなか抜けられない。背後から首を絞められたのと同じように、頭に激痛が走ったまま逃れられない凶悪な技である。確かに痛い技ではあるのだが、頭を締められたからといって頭蓋骨が割れるわけではないからケガを負うことはないと思っていた。全治二週間のケガというのはどんなものなのだろうか。一度見てみたい。

 このように地方の無名の市議でさえヘッドロックをかけるんだから、大仁田厚や馳浩らのプロレスラー議員には彼らにふさわしいステージを与えてやるべきだ。国会でなかなか議決が取れない場合、プロレスで決着をつけるというのはどうか。各政党の選び抜かれた戦士がプロレスで議案の可決否決を巡って戦うのである。無論どこの政党にも強いレスラーがいるわけではないから、何らかのハンデを与えた上でやればいい。昔から拳と拳で決着つけるやり方は怨恨を残さないとか言ったものだから議決も案外スムーズに決着がつくんじゃないだろうか。
プロレスをするときに体力の衰えたジジイババアは役に立たない。そうやって体力の豊富な若い世代の議員が増えれば議会政治の活性化にもなったりするのではないか。ジジイに体力はないなんて言いながら、ハマコーなんかは意外と強かったりするかもしれないが。
大仁田厚がうるさく吠えたてる田嶋陽子をリング上でねじ伏せてモノも言えないようにしてやったら、私を含めてたくさんの人々が喜ぶに違いないのである。

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2005年5月20日 (金)

かつての日本にあった慈愛の精神

 「もったいない」という日本語が海外で注目を集めているらしい。世界的に環境問題への関心が高まる中で無駄遣いを戒めるこの言葉が興味を引いたようだ。確かに「もったいない」という言葉には無駄遣いを戒めるニュアンスがあるが、日本で古来から使われてきた「もったいない」にはもっと奥深い含蓄があるように思われる。

 では「もったいない」という言葉は一体何を「もったいなく」思っているのだろうか。私はそれを、無駄遣いという行動そのものを指すのではなく、無駄にされる「モノ」への追慕の情ではないかと考える。
日本には古来から原始信仰としての神道が根付いてきた。その神道に現れる神がいわゆる「八百万の神」で、人の身の回りにあるもの全てに神が宿っていると考えられてきたのである。身の回りの物体を神として捉えるところから日本人のモノに対する慈愛の精神が始まったのではないだろうか。ある宗教に信心して偶像崇拝するという文化は日本ではそれほど濃厚に根付いてきたわけではなかったが、それは日本人が神を信じなかったのではなく、神という存在を意識せずに、ありふれた日常の中で神を信仰するという文化を身につけていたからではなかったか。

 しかし長い間育まれてきた日本人の慈愛の精神も、産業の近代化に伴い徐々に希薄になりつつある。それは食料から工業製品に至るまでのモノ全般が大量生産によって安価に入手できるようになったからである。壊れつつあるモノを慈しみ修理してあげることよりも、見た目も中身も同じ新しいモノを買う方が手間も料金もかからずに済む。日本は飽食の時代と言われて久しく、日本の国土で食糧不足にあえぐ農民の姿は見られない。やはりモノがあるという状態は人の心に驕りを与えるのだろうか。今「もったいない」という言葉が他国で受け入れられたとしても、日本人はその言葉を作り出した自分たちに胸を張っていけない状態なのだ。むしろ海外の人々のほうが「もったいない」の本質を理解し、その概念を大切にしてくれるかもしれない。

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2005年5月19日 (木)

ワシは汚職のムネオや!

 今「ワイロ最中」という妙な名前の商品が巷でブームになっている。地元の静岡県相良町にゆかりのある田沼意次をモチーフにしたもので、中身は小判型の最中と「したごころ」と書かれたのし付き封筒が入っているというブラックユーモアに富んだ商品だ。
田沼意次といえば江戸時代に優れた政治手腕で権勢を築いた政治家の一人である。印旛沼干拓工事や貿易を通して金保有率を高めるなど、良い政策を行ったとされているが、最後は収賄の疑いを掛けられ失脚してしまった。その所為で政策は良かったにもかかわらず「ワイロ」のイメージがつきまとう日本史上有名な人物である。

 悪いイメージの人物を皮肉って商品化するというこのアイデアはなかなか良さそうだ。そこで「ワイロ最中」に続くヒット商品は何か考えられないだろうか。まずはモチーフになる人物だが、田沼意次なんて歴史上の人物は知名度が低いだろうから現代のよく名前が知れ渡っている人物にすればいい。例えば「ムネオハウス」で一躍有名になった鈴木宗男をモチーフにして「ムネオハウスサブレ」なんてものを作ってみたらどうだろうか。いくつか購入してポイントシールを集めればもれなく当たる「ムルアカストラップ」なんてものも作ればいい。間違いなく人気が出るだろう。
勝手に名前を使うのは名誉毀損だとかいうお堅い人がいるかもしれないが、鈴木宗男が汚職してしまったのは事実なんだからそんなふざけた主張なんて黙殺すればいい。後世まで名を残すのは難しいことだ。しかし悪役というイメージで喧伝すれば人の心に残るのではないか。何もない一市民として生涯を終えるよりも、悪役として人の心に残るのは素晴らしいことではないだろうか。

 「ムネオハウスサブレ」だけではなく他の失態を犯した政治家をモチーフにした商品もどんどん売り出すべきだ。辻本清美の「給与流用会計簿」とか古賀潤一郎の「学歴詐称クッキー」などはどうだろうか。しかしこれらはまだまだインパクトに欠ける。やはり一番作って欲しいのは田中角栄の「ロッキード饅頭」じゃないか。もしそんなものが売っていたら絶対に買いに行くのである。

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2005年5月17日 (火)

鉄鋼業界の復讐

 鉄鉱石や石炭の供給価格上昇の影響などで国内の鉄鋼材が不足するという事態が続いている。鋼材が不足するというのは鋼材に対する需要が上がっていることでもあり、鉄鋼製造業各社は鋼材の供給価格を10%~20%つり上げるそうだ。これには自動車産業など国内の鋼材を使用する企業が猛反発しており、鋼材供給価格をめぐる激しい攻防はまだまだ続くようだ。

 鉄鋼といえば高度経済成長以後の日本の重厚長大型の産業を支えてきた業種である。しかしバブル崩壊後は鉄鋼不況が起こり、また阪神大震災では鉄鋼大手の神戸製鋼の工場が大きな被害を受けるなど、災難続きであった。そうして国内鉄鋼業は生産規模を縮小してきた経緯があるのだ。
ここ数年間でも鉄鋼業は幾度となく窮地に立たされた。日産のCEOに就任したカルロス・ゴーンが打ち出した再建計画(リバイバルプラン)は販売力の強化だけではなく、原料価格の徹底的なコストダウンも行った。その中で自動車業界に鉄鋼を供給している鉄鋼業界は日産から大幅な値下げを迫られたのである。日産の強引な交渉は「供給価格を引き下げないと鉄鋼の仕入れ先を他社に替える。」という半ば脅迫じみたもので、鉄鋼各社は渋々供給価格の引き下げを行った。その日産に対する値下げが原因で鉄鋼を仕入れている企業は次々と供給価格の引き下げを迫り、鉄鋼業界は一気に不況に陥った。これがいわゆるゴーンショックである。ゴーンショックにより鉄鋼業界全体が失った利益はおよそ一兆円とも言われている。

 それが最近では国内自動車メーカーの海外向け増産などで鉄鋼の需要が増え、鉄鋼が不足するようになってきた。国内自動車メーカーが鋼材に求める品質基準は極めて高く、世界で最も高品質といわれる国産鋼材に主に頼っている。逆に輸入鋼材は品質にばらつきがあり、効率的な生産には向かないという。
その高品質の国産鋼材が不足する中で、日産やスズキなどの一部の企業が原料不足から生産を一部休止に追い込まれた。この機会に今まで虐げられてきた鉄鋼業界は主導権を握ったのである。この分では鉄鋼の供給価格の交渉の趨勢がどちらに傾くかは想像に難くないことだろう。

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2005年5月16日 (月)

革命の連鎖に揺れ動く中央アジア

 AP通信などは十五日、中央アジア・ウズベキスタンの東部アンディジャンで起きた大規模な反政府運動で、民間人を含む死者が約五百人に上るとする地元医師らの証言を伝えた。しかも隣国キルギスに流入した難民はすでに六百人を超えたという。

 ウズベキスタンで起こった大規模な反政府運動と、それを政府軍が強引に鎮圧しようとして大量の死者が発生した今回の騒乱は痛ましい限りである。なぜウズベク政府はこのような強硬手段をとってまで暴動を鎮圧しようとしたのだろうか。それを考える上で、ウズベキスタンの周辺諸国で連鎖的に発生した民主主義革命の動きを見逃すべきではない。

 中央アジアでの民主主義革命運動は既にグルジア、ウクライナ、そしてキルギスタンで発生し、暫定新政府を次々に樹立している。その民主化革命運動がなぜ起こったかというと、それは大きく二つの理由に分かれる。一つは、今まで続いてきたそれぞれの国の政権内で汚職や腐敗、独裁体質が強まってきたこと。もう一つは、そのような反政府の機運を民主化運動と言う形でアメリカの民間団体やNGOが煽り立てたことである。
後者の理由はアメリカや西欧諸国が旧ソ連圏の諸国を切り崩して自陣営に引き付けるための策略であることは明白であるが、いくら煽動と言っても、火のないところに煙は立たずという。やはり前者の旧来政権に対する反政府的気運の高まりによるところが大きい。

 その周辺諸国で起こった民主主義革命の波は、ウズベキスタンにもただならぬ影響と動揺をもたらした。ウズベキスタンではカリモフ大統領の娘の会社が複数の大企業を買収し、巨大資産を築いている。こうしたトップによる独占的な支配形態をとっているウズベキスタンは周辺諸国の政変に非常に敏感だったのだ。早速ウズベク政府は民主化支援を行うアメリカの民間団体・NGOを国内から締め出しにかかった。
そうして政府が政変に敏感になっているときにウズベクでも政変が発生したのである。しかし元々から野党活動を制限するなどしているこの国では、キルギスやウクライナのように弱腰ではなかった。すぐさま軍を動かして暴動を鎮圧した。それが今回の事件の結果である。
まだウズベキスタンの政変は始まったばかりなのだ。

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2005年5月15日 (日)

半島の似非融和ムードを戒める

 韓国と北朝鮮は14日、昨年7月以来途絶えていた南北対話を16、17の両日に北朝鮮の開城で開催することで合意した。韓国側は会談の目的として第一に「南北関係の修復」を挙げ、第二として「核問題」を挙げた。
なぜ世界各国が北朝鮮の核問題に敏感になっている中で韓国だけ会談の第一義が「関係の修復」なのか。確かに北朝鮮の核開発は外交カードとして切り出したものであり、実際に撃ってくる可能性としては低いと考えるのが妥当だ。しかし第一義に挙げられている関係の修復とは韓国側からの北朝鮮への物資援助などのことを指すのではないか。世界各国が北朝鮮との融和的外交を止めて、北朝鮮を経済的政治的に孤立させている中で、これでは韓国が北朝鮮に助け船を出した格好である。

 韓国の大統領が金大中から盧武鉉に代わってから、韓国の対北朝鮮融和外交はその傾斜をさらに強めたように感じる。一方で韓国は日本に対しては歴史問題を挙げて強硬的な外交姿勢をとっている。このような韓国の周辺各国に対する外交姿勢は韓国が同民族である北朝鮮との併合を目指しているように思えるのである。今は北朝鮮は韓国と経済格差がありすぎていきなり併合というのは難しいのかもしれないが、経済格差がなければ韓国は北朝鮮との歩み寄りをもっと深めていたであろう。同じ民族である連帯感がそうさせるのであろうか。言語学者の田中克彦氏は著書『ことばと国家』の中で「母語とそれを共有する言語共同体との関係のみが人間の集団形成にとって自然的かつ根源的であり、それは国家の国境線すら無視してしまうような危険な政治的迫力を秘めている。」と述べている。

 しかし韓国の融和的外交姿勢は北朝鮮の側にすれば格好のエサであることを忘れてはならない。北朝鮮は韓国と同じ民族の国だとはいっても、その国の実権を一手に掌握しているのは朝鮮民族ではなく「金正日」一人なのだから。

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2005年5月14日 (土)

忍び寄る日本産業衰退のシナリオ・後編

 世界の経済先進国であるアメリカと日本だが、その二国の経済については非常に興味深い関連性が存在している。それはつまり、日本の経済構造がアメリカのそれを十数年くらいの遅れで後を追っているということである。日本が90年頃に直面したバブル経済、その後流行りを見せたカード経済、これらは全てアメリカで同様の経済現象が起こった十数年後に日本で起こっているのである。
アメリカの製造業の衰退については昨日に書いた。この製造業の衰退も日本と無関係とは考えられないのである。アメリカが直面している経済問題はいずれは日本も経験するものであるということを心に留めておかねばならない。

 ここで経済についてある程度の関心がある人は、アメリカの製造業の質と日本のそれとは違う、と言われるだろう。確かにアメリカを自動車業界から駆逐しつつあるのは日本の企業だし、日本の産業が作り出す精密機械の品質は世界に比肩する者がないと言われている。しかし、2年後に直面する2007年問題によって失う大量の雇用はこれらの産業構造などにに大きな影響を与えてしまうのではなかろうか。それは単に労働人口の減少による影響だけではない。現在の職に就いてから転職などをほとんどせずに企業一筋に頑張ってきた「団塊の世代」労働者と、転職を繰り返したり定職に就かない若い世代の労働者では、労働力の質に差が出ることが懸念されるのだ。

 日本の好調企業の筆頭であるトヨタも、電化製品の製造で堅実に成長を続けている松下も、それを支えているのは無数の国内中小下請け企業である。その国内中小企業で労働力の減退が起これば、それは親会社の大企業の業績にも重大な影響を及ぼしかねない。下請け企業の質が落ちれば、大企業はその存続のために下請けを海外発注に切り替えるかもしれない。そうなれば日本と将来的な経済のライバルとなるであろう韓国や台湾、中国に技術力提供の機会を与えてしまいかねないのではないか。

 日本でも数年前からIT産業のブームが始まり、現在は無形の産業であるデジタルコンテンツだけに立脚した企業も少なくない。IT業界の寵児であるホリエモンや孫正義が世間の脚光を浴びている様が、いつか日本の製造業が衰退することを示唆しているように思えてならないのである。

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2005年5月13日 (金)

忍び寄る日本産業衰退のシナリオ・前編

 ※今から言う話はあくまでも仮説である。その点に留意して読んで欲しい。

 日本を代表する企業と言えば間違いなくトヨタである。日本が戦後に高度経済成長を果たしたときもその経済成長を牽引したのはトヨタを始めとする自動車企業だったし、最近の不況に喘いでいる日本企業の中で尚も世界の大手企業として成長を止めないのはトヨタくらいなものである。

 ところで皆さんは2007年問題という言葉を知っているだろうか。パソコンの日付表示の不具合で話題となったのは2000年問題だったが、残念ながらそれとは全くの別物である。
かつて日本は二度のベビーブームを経験した。その一回目のベビーブームの時期に生まれた世代を「団塊の世代」という。今の60歳前後の初老の方々がその団塊の世代にあたる。この世代は戦後の高度経済成長を支え、海外諸国から日本人をして「企業戦士」と言わしめたほどよく働いた人々であった。しかし団塊の世代の労働者はあと数年で定年を迎え、長年勤続してきた会社を辞めていく。その退職が2007年から始まることから2007年問題と呼ばれているのである。

 一方で現在、アメリカに製造業を中心にした不況が襲いかかっているのをご存じだろうか。日本の高度経済成長期にアメリカの自動車産業が大打撃を受けたのは有名な話だが、今アメリカの自動車産業は再び打撃を受けているのである。その原因はアメリカ自動車産業の国際市場競争力の低下である。トヨタなどが新しいエコカーなどの最新技術を駆使する中で、アメリカの自動車産業はその流れに乗り遅れたのである。
その結果、アメリカの自動車産業はどうなったか。産業都市で有名なデトロイトの工場で閉鎖が相次ぎ、失業者が溢れたのである。アメリカにホームレスというイメージは似合わないかもしれないが、公園などで浮浪生活を送っている事情は日本と何ら変わらない。
そして現在アメリカの第二次産業(製造業)は急速に衰え、労働力の多くが第三次産業(サービス業など)に移行しているのである。
果たして製造業の不振に苦しむアメリカと日本の関係とは一体何だろうか。

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2005年5月12日 (木)

電脳世界の闇に飲まれた男と少女

 18歳の少女がインターネットで知り合った男性に監禁されるという事件が起きた。犯人は小林泰剛容疑者24歳無職、少女を3ヶ月もの間監禁していたという。こうした凶悪犯罪は年々増加しており、パソコンとインターネットが作り出す電脳世界の闇というものについてつくづく考えさせられる。

 小林容疑者は少女を監禁していた間、少女に首輪を付けて「ご主人様」と呼ばせ暴行なども加えていたという。また逮捕された際に家からは陵辱・調教モノのエロゲームが見つかったということだ。
近年規模が爆発的に大きくなっているアニメ、ゲーム市場では、こうしたエロゲームが売り上げの中核を担っている。エロゲームのジャンルは豊富で、そうした中の一角を占めるのが陵辱・調教モノ、鬼畜モノと呼ばれるサディスティックな描写が多分に含まれたゲームだ。こうしたものに興じる人が増えている中で、現実と電脳世界の区別が付かなくなっている人も少なくない。
小林容疑者は実家が裕福で、無職の一人暮らしだった。もっと社会に触れ合う機会に恵まれれば、まともな女性と知り合い付き合っていたかもしれないのである。男を犯罪へ駆り立てたのは裕福な家庭環境が一因だったのかもしれない。

 少女と男はインターネットのチャットで知り合った。少女は懇意になった男に「ヤクザを家に送り込まれたくなかったら東京に出てこい。」と言われて上京したという。少女は身の危険を感じなかったのだろうか。上京する時に親は事情を知らされていたのだろうか。
確かにネット上で顔の知らない相手とコミュニケーションを取るのは、楽しい。だがモニターの向こうの顔の見えない相手はあくまでもモニター越しの関係でしかない。モニター越しの相手はいつ牙を剥くか分からないし、どんな人間か全く分からないのである。少女は過度にモニター越しの相手を信頼してしまったがために今回の事件を引き起こしてしまったのではなかろうか。
電脳世界は人が利用するべきものでこそあれ、それに依存するべきものではないのである。

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2005年5月11日 (水)

日本の識字率は0%!?

 識字率とはどれだけの国民が文字を読み書きできるかという数値で、国家の教育の面で非常に重要な課題である。識字率の低さが問題となるのは主に発展途上国だが、先進国でもアメリカなどは移民の多い所為もあって実質識字率は50%くらいだと言われている。その中で日本は昔から識字率は非常に高い。現在の日本の識字率は約100%で、つまり日本人は誰でも日本語が読み書きできるということである。
しかしここで考えて欲しい。日本語と言ったら具体的に何が該当するだろうか。ひらがな、カタカナ、そして漢字である。さっき言った「日本人は誰でも日本語が読み書きできる。」というのが本当だとすると、日本人はほぼ全ての漢字を読み書きできなければいけないことになってしまうのだ。だが、果たして日本人のどれだけが漢字をほぼ完璧に読み書きできるというのか。日本の学校で漢字を覚えるのに苦しんでいる学生が殆どである現状で、日本人の漢字の認識力、つまり日本語の認識力はとても低いことが考えられるのである。

 それに対して文字を覚えるということに関して全く労力を必要としなさそうな言語もある。代表的なのが英語だろう。漢字を数万文字を覚えなくてはいけない日本人に対して彼らはアルファベットをたった26文字覚えるだけでいいのだ。なんとも日本人にとっては羨ましいくらいである。
では英語と漢字はどちらを覚える方が有意義なのだろうか。国際化が叫ばれる中で英語は必須だと思っている人も少なくないかもしれないが、実際に英語を頻繁に話すことを必要とする職業に就いている人はそれほど多くないだろう。過去に英会話ジオスの広告は「英語を話せると10億人と話せる。」と宣伝していたが、漢字も負けていない。漢字の意味をしっかりと理解し、読み書きできることは漢字を使った他言語の理解にも役立つ。高校の国語の授業で漢文を履修するのには漢字の知識が大いに役立つのである。さらに漢文の延長上に中国語があると捉えたならばどうだろうか。なんと日本人は自国語をしっかりとマスターするだけで「10億人が話す中国語をある程度理解できる。」のである。漢字も馬鹿にはできない代物なのである。

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2005年5月10日 (火)

日本を甘く見るな!

 5月10日未明、イラクで邦人が一人拘束された。例のごとくテレビ番組はその報道で持ちきりで、私も朝のニュースでこの事件を聞いた。私がこの報道を聞いて思ったのは「またか・・・」ということである。人命がかかっているのだからこんな風に思っちゃいけないのは分かっているが、どうしても聞き飽きてしまったような話だった。

 邦人拘束に関わる事件の中でも日本中に最も大きな反響をもたらしたのが、香田証生さんの拘束そして殺害だった。今回の事件も最初に聞いたときは、ワイドショーなどで吹き荒れる自己責任論と自衛隊イラク撤退論の不毛な応酬を思い浮かべてしまったものだ。しかし事件の詳しい情報を集めるにつれ、香田さんの時とは状況が違うことを感じるようになる。
今回拘束されたのは斎藤昭彦さん44歳。過去に陸上自衛隊に在籍しており、陸自で精鋭と言われる空挺団に所属していたそうだ。これだけでもかなりの手練れであることが分かるが、陸自を辞めた後はフランスの外国人部隊に所属していたという。
このフランス外人部隊というのは名前の通り国籍を問わず兵士を募集している部隊で、各国から志願者が集まるため精鋭部隊として知られる。中でも第2落下傘連隊はアメリカのネイビーシールズやデルタフォースなどの特殊部隊と肩を並べるほどの練度を誇るとして有名だ。

 それだけの輝かしい経歴を持つ人物が捕まってしまったということに私は少なからずショックを受けたのだが、武装集団に襲撃された斎藤さんらの集団のうち、斎藤さん以外は殺されてしまったということである。これは武装集団が日本を腰抜けとでも思って身代金を要求するための罠だとしか思えない。そりゃ人命がかかっているので政府も助けざるを得ないが。
そんな中で数々の軍隊経験を持つ斎藤さんが「私を助けることは奴らの陰謀だ。その手に乗ってはいけない。」と毅然とした態度で語ったならばどうだろうか。次の日の世界の新聞各紙はこぞって「日本のサムライ、祖国に殉ず。」と書くだろう。無論斎藤さんに死ねと言っているわけではない、無事に助かる以上のことはないのだが、重傷で虫の息かも知れない斎藤さんには最後の気力を振り絞って、憎き武装集団たちに一矢報いて欲しいと思うのである。

参考:http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/message11/fr.html

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2005年5月 9日 (月)

服は着るべきか?着ないべきか?

 衣服は人間の文化の象徴だと言われる。聖書では禁断の知恵の実を食べたアダムとイヴが裸であることを知って衣服を身につけたことが、衣服を身につけることが人間の知恵の象徴であるように描かれている。現代においても衣服は世界の様々な国の文化の数に合わせて存在し、民族衣装というものが今なお根強く伝承されている。しかし衣服というものは、果たして人のファッションや民族の象徴としてのみ存在するものなのだろうか。

 衣服は民族の象徴と言ったが、宗教によっても衣服が指定されているのもある。代表的なのはイスラム教だろう。イスラム教では女性は全身をすっぽりと衣服で覆ってしまわなくてはならない。これが最近では女性の権利を抑圧しているとして反発する運動も少なくない。だが元々イスラム女性が衣服を全身に身につける習慣ができたのは、男の理性は性欲に打ち勝てないかもしれないから弱い男の理性を崩壊させないように女は肌を隠す、というイスラム教の独特の観点によったものらしい。衣服を全身に着るという習慣は意外に面白い理屈によって成り立っていたのだ。

 一方でその逆はどうか。「ウルルン滞在記」などの番組などを見てればよく分かることだが、アフリカや東南アジアの原住民と呼ばれる人々の中には男性女性とも真っ裸で暮らしている民族もある。衣服を着ないということは文化的に劣っているからだ、ということを文明の発展した国に住む私達は思ってしまいがちであるが、彼らにも彼らなりの理屈がある。一昔前にある部族の長がヨーロッパ文明を批判してこのように言ったことがある。「我々は衣服を着ないが裸の女性に欲情することはない。彼ら(ヨーロッパ人たち)は衣服を着るが故に裸の女性に欲情することになってしまったのだ。」と。

 しかし私にしてみればイスラム教も、ある部族の長も、理解が足りないように思う。なぜなら全身を覆わず衣服を着ることによって、チラリズムという悦楽が生まれるからである。見えそうで見えない、そんな状況がかきたてる劣情は時として女性の全裸を見るよりも魅力的であるということを理解しない彼らが私にはなんとも無粋だと思えるのだ。

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2005年5月 8日 (日)

日焼けは日本人の特権である!

 世界保健機関(WHO)は日焼けサロンなどで人体にあてる紫外線ランプで皮膚ガンになる可能性が高いとして、18歳未満の日焼けサロンの利用を絶対に避けるよう勧告した。
日本では数年前に真っ黒に日焼けするガングロ、ヤマンバギャルが大流行したが、彼女らが皮膚ガンにかかったという話はほとんど聞かなかった。それは何故だろうか。
またこのWHOの勧告によると、皮膚ガンの被害はノルウェーやスウェーデン、アメリカなどで急増しているという。これら皮膚ガンの急増している国に共通する事項は、白人が多い国ということである。

 これらが意味するところは、肌の色は皮膚の紫外線に対する強さとなっていることである。白人達は昔から黒人や黄色人種を劣等人種として見下してきた。しかし肌の色は黒いほど紫外線などの刺激に強く、白いほど刺激に弱い。日本人でも色の白い子は肌が荒れやすいのがそうである。確かに白色人種は高度な文明を築く先駆者となってきたかもしれないが、肌が白いということは元々人間が備えている機能の面で劣っているということでもあったのだ。生物としての人間の機能で劣る白色人種が他の人種を見下し差別してきたという歴史は笑止千万である。ダーウィンの進化論を「白人は人間の最も進化している形態である」と解釈して白人優位論を作り出した白人は紛れもなく「最も退化した人間の形態」だったのである。

 現在地球上ではオゾンホールが拡大し、将来的に紫外線が増加すると言われているが、紫外線が増加して真っ先に被害を受けるのは白色人種である。白色人種が次々と苦しむ姿を、彼らに迫害されてきた黒人は楽しそうに眺めるのだろうか。
そう考えると、ヤマンバギャルのように日焼けできることは黄色人種である日本人の特権なのである。白人は紫外線が恐ろしくて真っ黒に日焼けすることもできないのである。

 私は肌が透き通るように白い女性が大好きなのだが、それはまた別の話である。

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2005年5月 7日 (土)

日本「非」核武装論

 先日の中国での反日デモ、北朝鮮の核兵器保有宣言、韓国での反日気運の高まり、、、これらの出来事で日本の国民世論は次第に硬化し始め、右翼的主張に傾きだした。無論私もそうした時代の潮流の中で右翼的主張を展開する論者の一人である。しかし、日本が核武装をすべきだという意見まで見えだしたのには首をかしげる。

日本は世界で唯一の核兵器の被害を受けた国である。その核兵器による災禍は二度と繰り返してはならない。私は学校の修学旅行で広島と長崎の二つの被爆地を訪れたことがあったが、そこで出会ったのは原爆の被害を次の世代に語り継ぐ人達だった。昔語りのように悲惨だった被爆体験を聞かせてくれたお爺さん、切迫感のこもった語りで被爆体験を被爆した瞬間の鮮烈さそのままに伝えてくれたお婆さん。語り部の方々の言葉は無差別に民間人を殺す核兵器がいかに非人道的で許されないものであるかを伝えていた。
それが今になって何故核武装などと言い出せるのか。戦後平和主義の色あせと戦争を知らない世代の戦争を美化する傾向がそこにないとは言い切れない。

 無論日本が核武装べきでないという主張は単なる感情論ではなく、実益の点におけるデメリットの多さにもよる。日本は戦後に平和主義を標榜して発展してきた国である。その平和主義の象徴である国家が平和主義を捨てるということはどれだけの世界の批判を招くか分からない。もしそうなれば、経済や外交にも重大な悪影響を与えるだろう。
もう一つの理由は、核兵器を手にしたところで日本はそれを外交カードとして使いこなせるのかということである。今の腰抜け・腑抜け外交を続けていたのでは、核兵器を手に入れたとしてもそのカードさえ足かせになりかねないだろう。また核兵器保有を核抑止力という観点で見るならば、現時点でも核抑止力を持ち得ているという点にも注目すべきだろう。日本の原子力発電技術は先進国内でもトップクラスであるからその技術を流用すれば核兵器を作ることなどたやすい。IAEAが最も注意をしているのは日本と言われるほどである。もし実際に日本が核兵器を作る場合、たった半日で作れてしまうらしいのだ。

 日本が戦後貫いてきた非核の原則はとても尊い。その原則の尊さを守るために日本政府は外交と一体になって頑張る必要があるのだろうが、残念ながら日本の外交は腑抜けなのである。なんともやるせない話である。


 2006・12・17追記 日本が核兵器を半日で作れるという話は全くの嘘のようである。核兵器を作るには半年から一年の期間は少なくとも必要であるそうだ。その点を訂正しておきたい。
 しかしながら、核製造能力を有しているというそれだけの事実でも外交上ある程度の核抑止力を持ち得ているという事実は見逃すべきではない。

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2005年5月 6日 (金)

人が最後に求めるもの

 いきなりの問いかけだが、あなたは人がどうしても手に入れられないものは何だと思うか。
人が手に入れたがるものと言えば、金や名誉そして愛人というのが一般的だろう。世の中を支配する欲のほとんどはこの3つのものに凝縮されているといっても過言ではない。しかしそれらを全て手に入れたとしても、絶対に手に入れられないものがまだある。それは人の過去の記憶、つまり郷愁や追憶といったものである。
これらはどれだけ金持ちになっても、偉くなっても、手に入れられない。子供の頃に遊んだ田園風景が忘れられないのはどうしてだろう。今は離ればなれになってしまった青春時代の親友や初恋の人がまだ記憶に焼き付いてるのはどうしてだろう。――
先日の痛ましい脱線事故で愛する人を亡くしてその人と暮らした日々が脳裏に焼き付いて離れない人もいるかもしれない。長い間続いてきたその人との記憶がたった一瞬の出来事で断ち切られてしまうから、人の死というものはそれだけ鮮烈な思い出となって留まるのだろう。
これらは言い切ってしまえば全て人の過去に対する執着である。人は常に変化を求めて生きているが、その過程で切り捨てられてしまったものに対する執着、名残惜しさが残ってしまっているのではないだろうか。そう考えると人の最も大きな欲というものは過去に対する執着欲なのかもしれないし、人間は元来保守的な生き物だったのかもしれない。

 私はそんなに長く生きているわけではないが、ふと家に飾ってある自分が生まれて間もない頃の写真を見ると、理由もなく涙が流れてくるときがある。また今では高校生になってしまったが、小学校、中学校の頃の思い出は懐かしい。もっと年を取れば今生きているこの時も懐かしくてたまらない思い出になるのだろう。
私は小さい頃は頑固で、わがままで、おしゃべりだった。それは今でも変わらない。だが小さい頃の友人に出会ったとき、「お前はいつまでも変わっていないな」と言われるのがたまらなくうれしいのだ。

 だって、何もかも変わってしまっては寂しいだけじゃないか。

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2005年5月 5日 (木)

恐れるべきは反日運動ではない・後編

 さて、中国の内治政策はある意味において素晴らしい手腕であったが、中国と日本の関係を考える上で見逃せないのが、その他の近隣諸国、韓国と北朝鮮そして台湾である。今日は水面下で危急を迎えている台湾の情勢を探ろうと思う。

 現在の台湾は中華民国政府が中国共産党政府に追われた姿である。台湾(中華民国政府)と中国(中国共産党政府)とのせめぎ合いは戦後からずっと盛んであった。この争いに一定の決着をつけたのが国連の共産党政府だけを本当の中国として認める、という決定だったが、結局二国は一つにまとまらず現在の緊張関係が続いている。
 その緊迫した関係に衝撃を与えたのが昨日の中国政府の全国人民代表会議(全人代)の決議だった。決議の内容は台湾への武力行使を正当化するというもので、中国と台湾の武力衝突が間近になったと騒ぐ識者もいた。だがここで考えて欲しいのは、中国側は台湾を獲得する上で本当に武力衝突というプロセスを望むだろうかということである。武力衝突が起これば、中国沿岸から台湾に向けられた数百基のミサイル群はたちどころに火を噴くだろう。しかしそのようにして焦土にした台湾を獲得して中国は何の利益があるというのだろうか。
 そうすると現実的な手段として考えられるのは武力行使ではなく外交戦略による台湾の平和的併合である。ごく直近のニュースでは、台湾の最大野党の党首が中国を訪れ融和ムードの外交を展開したとされる。現在の台湾の最大野党が与党とほぼ互角の勢力であることを考えればこれは危機ではないだろうか。計らずして中国の思惑通りに台湾を併合されてしまうことが考えられるのだ。また、台湾の兵器は殆どが米国の技術供給に依っている。この状況下で台湾が中国に併合されることになれば、米国の軍事技術は中国にことごとく流れてしまうということもありうる。日米の安全保障上で重要な防波堤の位置に立っている台湾が中国側になってしまうことはそれだけ危険をはらんだものなのである。日本はそのような危険をいち早く察知して素早い外交手腕を見せなければいけないのではなかろうか。

参考:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050504-00000012-san-int

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2005年5月 4日 (水)

恐れるべきは反日運動ではない・前編

 数週間前まで、中国の反日デモがあらゆるメディアでピックアップされ、そこで被害を受ける日本料理店や熱狂するデモ隊の異常さが報道されていた。しかしそれも数週間前の話で、現在は過大な反日デモを見かねた中国当局がデモを規制し、デモは沈静化した。
 デモが沈静化するとメディアも話題性がないのか、デモ関連の報道は全く止んでしまった。しかし日本の近隣外交・安全保障を考える上で見逃してはならないのは、デモの実態よりもデモを押さえ込んでしまった中国当局の権力の強さであろう。

 デモとは民衆が行う政府などの巨大権力へのプロパガンダである。ある意味で民主主義の象徴であるはずのデモを中国当局はいとも簡単に押さえ込んでしまったのだ。これは中国政府の国民に対する言論統制・弾圧と言えるだろう。それを日本の識者は「日本への友好に配慮する中国政府の好意」であるかのように受け取っている。確かにそうかもしれないが、政府がデモの抑圧に乗り出してまもなく止んでしまうような巨大な国家権力とはどこからくるのだろう。怖れを抱かずにはいられない。

 インターネットが発端となって大規模な集会が可能になったと言われている今回のデモだが、中国当局のインターネットに対する巧妙な言論統制の実態も忘れてはならない。そこでは中国共産党政府を批判するサイトや書き込みは徹底的に封じられ、(この反体制分子を見つけ出すシステムは相当技術が高いらしい)国民は全く体制批判をすることができないという。とすると、今回の反日デモは自国の体制批判を禁じられた国民が鬱憤のはけ口を反日教育で染みついている日本への怨嗟に向けたとも言えるのではないだろうか。この事件に対する識者の見解としては様々だが、一部では今回のデモは本来政府に向けられたものであり、中国の体制崩壊の予兆であるとする見方も存在する。日本との経済的な結びつきを強めていく中で中国政府は以前通りの対日強硬外交を推し進めることが難しくなってきているが、国内へは依然として完璧な言論統制を敷くことに成功しているという一面が明らかになった今回の反日デモだったのかも知れない。

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